ベリーベリーストロベリー

 リミットは五ヶ月と決めていた。それは、私が何も知らずにのうのうと生きていた時間だ。
 一ヶ月目は、図々しく自分を責めることにした。ことにしたというか、そうすることしかできなかったのだ。私は愚かだから。
 二ヶ月目は、平然と生きることにした。それが一番恥知らずで罰当たりと思ったから。友達とディズニーランドに行った。仲の良い友達ではなかったけれど、どうでもいい関係と言うには忍びない、それくらいの。たくさん、ご飯に出かけた。一番楽しかったのはサーティーワン。みんなでどのフレーバーにするかワイワイ相談するのが、とても年相応の生活っぽかった。楽しいな、と思った。ああ、みんなは毎日こんな生活をしていたんだな、ゾンビに見えて仕方なかったあの人たちは。フレーバーは、チョコミントとジャモカコーヒーにした。ラブポーションサーティーワンとポッピングシャワーも捨てがたかったけど、悩みに悩んだ結果やめた。なかなか決まらない私をみんな可笑しそうに笑って見ていた。カナちゃんのキャラメルリボンを一口貰った。甘くて、美味しかった。
 三ヵ月目と四ヵ月目は、全部忘れていた。学校の授業に悩殺された。何も知らないでいた頃と全く同じ、まるで転写したみたいに同じ日々だった。このまま忘れても、誰も忘れたことに気付かないだろうな、と思った。
 そうやって五ヶ月目になったから、私は散らかった部屋を丁寧に片付け始めた。フローリングの見える面積が広がっていくのは、心地良かった。気持ちまで晴れていきそうだった。きちんと炊事をした。あたたかいものを食べるのは存外侮れない効果を持っている。机が広くなったから、適当な検定に申し込んだ。勉強をしてみることにした。思いの外捗って、掃除は大事だな、としみじみした。よく外を歩くようになった。お気に入りのラジオをイヤホンで流しながら靴を履くと、不思議とどこまでも歩きたくなった。地図は見なかった。完璧に思った通りの道に出ることはなかったけれど、結構どうにかなった。
 お米をこまめに炊いた。やはり米は偉大だ。あるだけで自炊をする気になる。気温が次第に下がってきたから、鍋にして雑炊で〆るのもいい。胃腸はいつも調子が良く、気分を爽快にしてくれた。それで、ホームドアのない新宿駅に向かう足取りはこんなにも軽いのだ。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。
 いつだったか誰かが、私のことを可哀想だと言っていた。吐き出す二酸化炭素があまりに稚拙で、本質に辿り着けないまま死んでいくことしかできない様が哀れだと。あの人は今、どうしているだろう。元気にしているだろうか。唐突に今、不幸を願った。人間はこんなに他人のことで心を尽くせるのだと初めて知った。名前も顔も思い出せないその人が、どうしようもなく不幸でいますように。
 私は呪いたかったのかもしれない。でも呪い方がよくわからなかった。呪っていいかどうかも、わからなかった。放つべき毒は内側に蓄積していった。本来持つべき強さのぶんだけ、それは己を蝕んだ。
 だから、死ぬんだ。彼女が決別した世界に、私が馴染めるはずもなかった。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。お腹が空くように、眠たくなるように、愛されたくなるように、セックスをしたいのと同様に、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。生まれたことを嘆いて大声をあげるのは、赤ちゃんのときは許されていたのに。いつ、どの瞬間にそれがいけないことになったのだろう。生きなくてはいけないと、決められたのだろう。
 幸せを欲して楽になるのなら、いくらでも求めた。祈った。けれどそんなことはなかったから、望まなかった。幸せになんてならなくていいから、はやく楽にしてほしかった、それだけだった。たったそれっぽっちのことだった。生物として成立するまでの数多とある困難を乗り越えて奇跡を起こしてみせた肉体のくせに、そんなことすら叶わないなんてどうかしている。

 訃報を聞いたのは、彼女が死んでから五ヶ月ほど経った頃だった。

 自殺だった。公園で首を吊っていたという。飛び降りじゃなくて良かった、ととっさに思ったのはどうしてだったのだろう。体がぐしゃぐしゃに潰れなくて良かった。なぜそんなことを思ったのだろう。でも真っ先に頭に浮かんだのは、そんなことだった。
 死ぬというのは、どういうことなのだろう。未だにわからないでいる。確かなのはただ、私がそんなことも知らずのうのうと生きていたとき、彼女はそれを責めることすらもうできなかったということだけ。でもたぶん、ぼんやりと線路を覗き込みながら、私は思う。ただ死ぬだけじゃない、事故でも病気でもない、自分の意思でこの世に、生きることに見切りをつけるということ。それはたぶん、十字架をぶん投げることだ。背負えと詰りながら重い重い枷を縛りつけて、それでもそれを感じることも許さないと断じることだ。彼女の死を悼む権利なんて、誰にもなかった。彼女がそれを許すはずなかった。だって絶望したんだから。して、して、して、もうし尽くしてし尽くしてし尽くして底をついたんだから。
 そうなるまで、彼女は世界に見捨てられ続けたのだから。私も、あの子も、誰も彼もが含まれた世界に。それは明言していなくとも、拒絶に等しかった。彼女は世界に拒絶されたから拒絶し返した。生まれて初めて私のことを褒めてくれた、あの人。私は彼女のことが苦手だった。馬が合わなかった。
 ゴー、と遠くで音がする。どうして、新宿にはホームドアがないんだろう。一番必要な気がするのに。ゆっくりと地面が近づいてくる。体が重いのは、重力の影響を強く受けているからだろう。足は体を地面に繋ぎ止めることをもう放棄していた。
 あなたがいない世界なんて、と思ったことはない。
 なかった、五ヶ月間一度も。私たちはそんなに親しくなかった。あなたの死で悲しみに暮れるほど、私たちは額を寄せて澱んだ夜をマックで過ごしたこともなかった。後を追いたいほど好きでもなかった。
 それでも、死のうと思うのだ。大して重要でもない糸は、しかし切れるともう生きる気力も湧かなかった。死ぬ計画を立てる瞬間だけが心から安心できた。でもそれは彼女のせいでもない、おかげでもない。そんなことはとっくに、数えてみればきっと十年以上前から考えていたことだ。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。
 それが当たり前でさえあったら、セフレを作るみたいに、簡単に死にたがれたはずなのに。
 怒号が聞こえる。まばゆい光で目が眩む。強い存在感が、吐き気を催すほど痛烈に迫るのを感じる。私は、と念じると、その音に沿って微かに唇が動いた。わたしは。
 わたしは別にあなたのことなんて好きじゃなかったし、かなしくもつらくもなかったし。
 しあわせだって、のぞんだことはなかったし。

 

 

 

 

 

 

天使の正しいラブソング

 

「生きてても別にいいことねーよ、って言われたほうがまだ信用できない?」
 チーコがそんなことを言ったとき、わたしはちょうどうまい棒のコンポタ味を口に突っ込んだところだった。これは即答を求められているやつだぞ、と思いながら必死に口に入れてしまったぶんを咀嚼していると、案の定チーコが不機嫌そうに振り向いた。今にも文句を言い出したそうに尖った唇が、やがて口の周りをうまい棒のカケラでいっぱいにしたわたしを見るや否や吹き出した。
「ちょっと、笑わないでよ」
 わたしも思わずムッとした声が出る。あんたもタイミングを見計らいなさいよ。せめて小一時間目の前でわたしがコンポタ味にするかめんたい味にするか、ここはあえて自罰で悦に入るためなっとう味にするかウンウン唸ってたときに言いなさいよ(ちなみにチーコはなっとうを勧めてきた。彼女の口には合うらしい。彼女の味覚は信用しないことにしている。前、ドリンクバーで彼女が絶賛する組み合わせを混ぜたら吐き出したくなった。そんなことはしちゃいけないと躾けられた自分の体が恨めしかった)。
「で、なんだって?」
 わたしは雑にへこみかけたペットボトルを開け水を飲んで、数回軽く咳き込んでから尋ねた。チーコの興味はもう別に移っているかもしれなかったけれど、なんとなく聞き返さなくちゃいけない気がした。
「あたしはさあ、ほら、ハクアイシュギシャ? ってやつだからさあ。まあ、どんなやつでも? 認めてあげるっていうかさあ。許してあげるんだけど」
 それはそれとして好き嫌いってあるじゃなあい? それって両立するよね?
 彼女は空を睨みながらそう続けた。足先ではポンポンとサッカーボールを弄んでいる。器用なことだ。リフティング、何回続くか数えてやろうか。五十まで行けたら教えてやろう、と思った瞬間にチーコはそれを高く蹴り上げて遠くへやってしまった。ちぇっ。
「すると思うよ」
 わたしは答えた。口の周りがまだむず痒くて、払うと黄色の粉がぽろぽろとこぼれた。まだついていたらしい。口の周りにスナックの食べかすをつけてハクアイシュギを語るなんて、格好がつかない。
 ほんとうはもっと言いたいことがあったけれど、それはなんとなく喉で堰き止められていた。手がベタついていたからではない。何かを言葉にしすぎることは幼稚なことだと心得ていたからだ。わたしとチーコは一番の友だちだったけれど、だからと言って愚かさを見せ合ったりはしない。そのときのわたしは既に、一丁前にプライドというものが育っていて、自分の見え方にとても鋭く敏感だった。
「ハル」
「なに」
「ボールとってきてよ」
「いやだよ。チーコが飛ばしたんでしょ」
「ちぇっ。ハルのケチ」
「ケチじゃないもん」
「うるさーい。ハルのサボリ魔ー。ボール取りに行くのすらめんどくさがってるようじゃ太るよ。ぷよぷよ。ぷよハル、やーい!」
「そんなこと言うなら太るのはチーコのほうでしょ⁈」
「あたし? あたしは太りませーん」
「なんで⁈」
「あたしは天才だから」
 いつも通りの会話の応酬に疲れて、わたしはため息をついた。
「意味わかんない」
 いつもこうやって、わたしの方が呆れて終わる。チーコは本当にムカつくけど、それでも案外、この時間をわたしは嫌いではない。わたしの方が折れるたび、まだ子どもなチーコがほんの少しだけかわいく思えたりした。
「コンポタ味なんか食べるからだよ。だからなっとう味にしとけって言ったのにー」
「関係なくない⁈」
 まあ、やっぱり、ムカつくけど。

「……そんなこともあったんだよ。覚えてる?」
チーコの横顔に、そう話しかける。たくさん喋ったから、喉が渇く。下の自販機で水を買ってくれば良かった、とわたしはこっそり後悔した。チーコの返事は、ない。あのうるさいほどに元気な、口をガムテで塞いでおきたいくらい喧しい声は返ってこない。もっとも、あれが返ってきても困るのだが。あれから何十年経ったと思っているんだ、いくらチーコでもあのときのままじゃ困る。わたしたちは、大人になったんだから。
「……チーコ?」
 返事はない。その横顔は、四角く切り取られた青空を見つめている。あまりの無反応に、耳が聴こえていないんじゃないかと疑いたくなった。
 チーコ。
 わたしはそっと呼びかける。振り向かない背中に、あのときと変わらないくらい細い肩幅に。返されない声に怖気付いて、口の中でもごもごとその名前を呼ぶ。
 チーコ。
 うるさくてバカで、ムカつくチーコ、背伸びしたがりのチーコ、わたしのチーコ。青空そのものみたいだったチーコが見つめるのはあのときと変わらない青空のはずなのに、その焦点も合わない瞳で何が見えるの。
 わたしのことも映さないでなにを見てるの。
 あのあと、ハクアイシュギトークをした日の翌週に、チーコは転校していった。お母さんがサイコンしたのだと聞いた。当時はサイコンが何かよくわからなかったけれど、先生が「千代子さんは幸せになりに行ったのよ」と教えてくれたから、そういうものなのかと納得していた。
 手紙を出した。返事ははやかった。さすがチーコだ、とわたしはお母さんと笑った。やりとりの間隔はだんだんと開いていって、メールでのやりとりが完全に普及した中二になるころには、もうすっかり途絶えていた。特に気にしなかった。わたしはクラスメイトたちと気になる男の子の話を、夜が更けていくのも忘れてメールするのに夢中だった。チーコだってそうだっただろう。だから別に、わたしは悪くないのだ。そりゃそうだろう。勝手に罪悪感を覚えるのも失礼というものだ。
 だから、知らなかった。なにも知らないままで、いつのまにかチーコは壊れていた。壊されていたことを知ったときには、彼女の全身の痣もぼんやりと薄まっていた。犯人だって骨になっていた。破壊されたチーコが、もう屍みたいになったチーコだけがひとり、残されていた。そのときに湧き上がった感情は、やはりというかなんというか、怒りだった。愚かなことに。
 チーコ、わたしのチーコ、今さら一番の友だちだって顔をしたってあなたは本当は認めないでしょう。だから一番の友だちだって顔をしよう。慣れ慣れしく振る舞って、傲慢にも覚えた後悔を満たすみたいに甲斐甲斐しく世話をしよう。だから、怒鳴ってよ。こっちを向いて、怒ってよ。
 こんなことは本当に後出しジャンケンだけれど、あの日チーコがハクアイシュギを語ったときのことをわたしはよく覚えている。チーコと連絡をとらなくなって、わたしはわたしで恋人との関係に苦心したりして、お酒の限度量をとっくにわかっていながらわざとハメを外したりして、そんなときでもあのときのことだけは覚えていた。チーコが蹴り飛ばしたボールの軌道、額に光っていた汗、抜けるような青空の匂い。チーコの呼ぶわたしの名前の、ちょっと癖のあるイントネーション、
 ボールとってきてよと言い出す前の一瞬、泣き出しそうだったチーコの顔。
 わからないフリを突き通そうとした。わたしにしては珍しく、精いっぱい子どもぶって。だって、先生は言ったのだ。幸せになりに行った、って。大人が嘘をつくはずないじゃないか。だって大人は嘘をついたら怒るんだから!
 今さら言えない。言えるはずがない、だってこの感情は本物じゃないから。あのとき内心でこっそりチーコのことを見下していた。当時気がつかなかったけど、あれはたしかな快感だった。そんなわたしが言えるわけがない。
 チーコが一番の友だちだったなんて、あの時代のわたしはあなたに救われていたって、そんなこと。
 口が裂けたって言えない。嘘でも言えるはずがない。
 チーコを助けられなかったわたしが、どのツラ下げたら言えるのだ。百回生まれ直したって無理だ。こんな薄情なわたしがそんなこと思うはずがない、だからこの感情は本物じゃない。酔っている。酔っているだけだ。何もかもに。だから、言わない。
 こっちを見てよなんて、言わない。
 わたしは、ひょっとしたらもしかしたらわたしたちは、あのとき人間不信がポーズとして流行っていることをわかっていた。「思春期」の未熟な感情の揺れを、そういうふうに微笑まれると知っていた。自分たちだって思春期真っ只中だったくせに、そう扱う大人を俯瞰して見ることでわたしたちは無敵だった。
 わたしたちはそうやって自分を守っていた。
 守っていたのは自分のことだけで、もしあのときその感情を認めていたら、大人のことがきらいだ、怖いと素直に嘆いていたら、違っただろうか。悪夢にチーコの心身が蝕まれる前に、チーコはキレて逃げ出せただろうか。怯えることはカッコ悪くないと、わたしが教えていたら。
 ふと、頬に風を感じた。びくっとして顔を上げると、チーコが病室の窓際に体を寄せていた。チーコが窓を開けたらしい。わたしは彼女を驚かせないように、そっとその近くに寄った。相変わらず、その瞳は何を映しているのかわからなかった。
「チーコ」
風が気持ちいい。彼女の睫毛が、ふるふると揺らされている。瞬きだけが、彼女がまだ生きていることを教えてくれる。
 そっと、手を握ってみた。振り払われるかと思ったけれど、特にそうされることはなかった。もちろん、握り返されることも。
 わたしはそっとチーコの薬指から、どうしてこんなサイズが入るのだろうと思われる指輪を静かに抜き取った。抵抗されないことを、喜べもしなければ悲しいのかもわからない。続いて自分の薬指からも、指輪を抜いた。今も東京の家でわたしを待ってくれているであろう人の姿が、ほんの少し浮かんで後ろ暗くなった。
 わたしたちは、どうやって生きていけばいいのだろう。
 その主語が二人であっても、頭は一人分しかないことを思いながら、そう考える。青空は祝福みたいな色をしている。息を吸い込むだけでロマンチストになってしまいそうなほど。そっと、瞳を伏せてお祈りをする。信仰心は厚くない方だけれど、今なら許される気がした。
 これはわたしのエゴだとわかっているから、どうかこれ以上裁かないで、と。
 緩く握った手の中で、ほんの少し、僅かにチーコの指が動いた。それだけで泣いてしまいそうになる。彼女が痛みを感じないように最新の注意を払いながら、わたしはすこしだけ、触れ合う指に力を込めた。
 うまい棒を、買いに行こう。
 二人分の無関係な指輪同士が、ポケットの中で触れ合う。わたしはきっと、これを中庭の池に捨ててしまうだろう。そして、呑気にうまい棒を買って、なっとう味は罰ゲームの味だって泣こう。
 この病室で。
 チーコのとなりで。

 

 

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天気の子をみてきた

 

直後の書き殴りなので中身はない、念のためネタバレ踏みたくない方にはおすすめしません

 

世界が、この世界が、たったひとつの恋だけでできていたらいい。
たったひとつの恋のせいで存在していて、たったひとつの恋で滅びてしまう場所ならいい。
それが、世界の脆さではなくて、恋の強さだったらいい。
世界なんてちっとも脆くないうえで、こんな強大な敵みたいなもののままで、そんなの簡単に打ち砕いてしまうくらい、恋がめちゃくちゃであればいい、めちゃくちゃなまでに、大きければいい。
恋の、物語だこれは、愛なんてものじゃなくて、些細なことが決定的に相手を特別にしてしまう、世界なんて滅びてもいいからあなたといたい、そんな恋だ、そんな恋が、この世の起源だったらいい。
恋の話だ。
誰の邪魔も拒む、誰の制止も訓話も怒鳴りつける、徹底的に孤独な恋の話だ。
どうか。どうか神様、嘘なんて言わないで、物語だなんて神話だなんて言わないで。
どうかこの世界が、恋でできていますように。
自分以外なんて全部めちゃくちゃになっていい、自分のためだけの恋で、この世界ができていますように。
そんな恋が、この世に、存在しますように。

スクランブル交差点を泣きながら渡って、山手線に泣きながら運ばれた。視界の全てがうんざりするほど美しかった、こんな美しさからは弾かれてしまいたいほどだった。駅のホーム、電車から見えるぎとぎとしたネオン、すれ違う人の喋り声、
最寄駅のぱっかり開けた空にさえざえと光る中途半端な形の月。
涙が出た。すみずみまでが何もかも愛しかった。愛しくて愛しくて気が狂ってしまいそうで逃げ出したくなった。
目の捉えるもの全てが、暴力的に心を引っ掻きにくる。何も考えていやしないくせに。
家まで歩いた。人目を忍んで嗚咽を漏らした。世界が、とずっと喉の奥で祈っていた、世界がたったひとつの恋でできていますように。星が見えた。今の街に移り住んでから、初めて見た星空だった。東京でも星は見えるのだと知らなかった。オリオン座。オリオン座、初めて見たときはあんなに大きいと思わなかった。びっくりした。
オリオン座。
泣き叫びたくなった。
ねえ、と思った。
この先、いろんなことを便宜上、説明しなくちゃいけないときがたくさんあるだろう。もっともらしい理由をこじつけて、大人に自分の内側を主張するために。
だめかな。
説明、しなくちゃだめかな。
今までどの作品も、彼の作品はどこが好きなのか明確に言葉にできた、してきた、でも、ねえ、しなきゃだめかな。
わけもわからず泣いてちゃ、だめかな。
オリオン座はとてもきれいだった。東京に来てから見たなかでいちばんきれいだったかもしれなかった。

世界なんて1ミリも、誰のこともひとりも、救わなかった。救われたのは自分だけ。自分のためだけに祈って、自分の欲しいものにがむしゃらに手を伸ばした。そしてたぶん、ついでにちょっとだけもしかしたら、きっと世界を不幸にした。なんて恋だろう。なんて傍迷惑な恋だろう。
なんて恋だろう。
ああでも、それでいいよと祈りたくなる、ずっとずっと嗚咽を噛み殺しながら真っ暗のなかで両手を組んで、ただあなたたちが一緒にいられるようにと、幸せであるようにと、引き裂かれないようにと。だからそれでいいよと、
それで良くあってくれますようにと。
こんなはちゃめちゃな恋が愛される世界であるようにと。
世界なんて滅ぼしたっていい、恋が、恋がこの世に存在するのなら、いくらでも形を変えたらいい。
ずっと、ずっと、ずっと、探している、初めて息をしたときからこんな、こんなめちゃくちゃな恋を、何も顧みずたくさんの人を巻き込んで世界だって形を変えて、それでも進んでいく恋を、その存在を。

恋に恋をしている。
ずっとあなたを、探している。恋を、そのものを。

サマー・ピリオッド

   世界が終わるから、夜を見ていようと思った。世界が終わるのを知るのは僕だけで、だから街はいつも通り生活の明かりが灯り、僕だけがそれを切なさを持って見つめていた。夜に会おうと、約束していた。七日後の夜に、会おうって。だから僕はあの子を待っていた。
 あの子に出会ったのは七日前の日のことだった。夏は外聞上店仕舞いを始めていた。とはいえまだじりじりと暑かったけれども、日が暮れると虫たちが風情ある声で求愛をしている声が聞こえるので、やっぱりもう夏ではないのだろうと思った。そんな中で僕という存在はとてもイレギュラーだったし、疎外感で体は硬直しそうだった。
「あら、珍しい。いき遅れ?」

   そんなとき、声をかけてくれたのがあの子だった。
「もう九月よ。お相手、見つからなかったの?」
「違うんだ」

   僕はおそるおそるあの子を見上げて、答えた。
「羽化し遅れ、のほう。さっきしたばかりなんだ」
「へえ! そうなの」
   あの子はにこにことして、誕生日おめでとう、と言ってくれた。それから僕たちは自己紹介をし合った。僕はとっておきの、土の中のトリビアを披露した。実はまだこれ誰にも言ってないんだけど、と前置いて、わたしあと余命一ヶ月だってさっき言われちゃったんだよねとあの子は言った。
 それからというもの、僕たちは、来る日も来る日も会い、お喋りをした。すっかり仲良くなった。僕とあの子は約束をした。どっちが先に死んじゃうか、競争だねとあの子は笑った。僕はえっへんと、僕の方が先に決まってるよと言った。先に最期が来た方の最期には一緒にいようねという約束だった。
 それから七日後のこと、今日。僕の世界が終わるから、夜を見ていようと思った。僕の世界が終わるのを知るのは僕とあの子だけで、だから街はいつも通り生活の明かりが灯り、僕だけがそれを切なさを持って見つめていた。夜に会おうと、約束していた。今晩がヤマのようだ、と僕がおどけて伝えると、あの子は笑って指切りをしてくれた。わかった、じゃあ今晩ね。会いに行くわ、って、穏やかに。
 僕は、羽の様子を気にしながらあの子を待った。ちょっとカッコつけたい気持ちもあった。足を動かしてみたが、まだ十分に動くようだった。大丈夫。多少あの子が遅れても、間に合うだろう。
 僕はあの子を待った。多少も待ったし、もっともっと長い時間を待った。眺めていた夜の街は、次第に寝静まって明かりが少しずつ減っていった。ふんわりと涼しくなっていって、その頃にはもう街灯以外の明かりが全て消えていた。このままじゃ、夜が、明けてしまう。あの子に会えないままお別れになってしまう。僕は羽にぐっと力を込めた。泣いてしまいそうだった。
 そのままそうやって、東の空が白み始めるまで、じっと待っていた。
 どうしたものだろう、と僕は考えた。うすぼんやりとした空の色が、一層うすぼんやりとして見えた。あの子が、約束を破るはずも忘れるはずもないということは分かっていた。それなのに、それならば、どうして。
   空が夜の色を手放すようにして明けゆくさなか、その瞬間、僕に狙い澄ましたようにささやかな雫が降った。昇り始めた日を浴びて、それは光のシャワーみたいだった。冷たいな、それでいて、懐かしい感じがする……そう思うや否や、僕は唐突に分からされた。ああ、そうなのか。そういうことなのか。あの子は来なかったんじゃない。だって約束を果たすべきは僕の方だったのだ。最期には一緒にいようねって。守れなかったのは僕の方なのだ。僕は僕の方が先に決まってるよと言った。あの子は一ヶ月って言ったじゃないか。言ったじゃないか。言ってたじゃないか……! こんなのって、そんな、こんなのって。
   白んだ空が徐々に水色を獲得していく。僕ははっとした。あの子がまだこの瞬間の空気のどこかに、魂として漂っているんじゃないかと、祈りを込めて羽を震わせた。生まれて初めてのなき声だった。空気よ、動かないで、回らないで、流れていかないで。あの子がまだそこにいるのなら。夜の粒子の最後の一粒が消えてしまえばもう、あの子を完全に失ってしまうのだと思った。僕も、世界も。
 僕は羽を一生懸命に、激しく震わせた。いかないで、置いていかないで。全ての粒子を引き止めようとした。九月の空に、蝉の求愛が響いていた。

 

【サマー・ピリオッド】

蛇のピアス

  

 学生時代の記憶の中で、窓際に関する記憶には、必ずひとつ、こがねいろにうつくしいものがあるのだという。

 わたしで言えばそれは高校二年生のときの確か三度目の席替えのあと。窓から三列、後ろからは二番目の悪くない席で、わたしは一度だけ、絵画のような瞬間を見たことがある。わたしの席から斜め左前にあたる方向、窓際の席。いつもえんじ色のセーターの、骨ばった背中。少し肌寒い日の午後、英語の授業中に換気だと開け放たれた窓のそばで、彼がバレないように小さく欠伸をして、その反動でぎゅっと目が結ぼれた、あの一瞬。外は突き抜ける青をした晴れ方だったけれど、そんなことも眩むような日だまりが半径彼メートルだけ波打った。わたしはその時に思ったのだ。うつくしいという言葉を聞いたら、わたしはきっとこの一瞬のことを思い浮かべるのだろう。十年たっても二十年たっても、この永遠に続いてしまえそうに思えるこがねいろを、わたしはうつくしいという言葉を聞くたびに思い返すのだろう。

 当時セーターの色でしか知らなかったその席の男子生徒のことを、わたしは今でも、この世界がうつくしい証拠として、記憶の中になくさずに持っている。

 

◇◆◇

 

 遅れると連絡が入っていたものの、結局インターホンが鳴ったのは予定よりほんの三十分後だった。

 玄関の扉を開けると、客人は何を言うでもなくわたしをじっと見つめた。その睫毛一本一本の動きに、愛しくてたまらないと言われているようで身じろいでしまう。

「睫毛」

 彼がぽつんと言った。「伸びた?」

「ううん」

 わたしは頭を振って、「入って」と言う。彼は黙って頷いて、首の汗を拭った。彼が上がってから扉を閉めると、立ち上がるように彼の匂いがしてわたしは泣きたいほどの安堵感に駆られた。

「お腹すいてる?」

「いや」

 遅めのお昼には遅い時刻だった。何か口に入れられているのなら、それでいい。暖房のよく効いた室内で、彼が汗を拭うのを見ながらわたしはケトルをコンロにかけた。汗が引くのは速い。彼が風邪をひいてはいけない。

「さむい」

 彼がぽつりと呟く。彼の方を見ると、彼はソファに沈んでいる。

「お風呂、入る?」

「いや」

「今、紅茶淹れてる」

「ありがとう」

 いるのかいないのか、彼はとても曖昧な存在感をしている。多分、わたしがいないと決めればいないことになってしまえるような。釈然としない彼の声音に、わたしは次の発言を待つ。その間に、ごぽごぽと鳴ってお湯が沸いたことを知らされる。

「さむい」

 彼が言う。催眠術のように、わたしに求めることを仕向ける。ソファに沈んだまま、彼が右目で振り向いている。

 

「きみはきれいだ」

 わたしを抱き枕にして、彼はわたしの左耳に囁く。

「ほんとうにきれい。ぼくが知るいちばんきれいだった空よりも、きれい」

 わたしはその言葉を、天井を見つめて聞く。左腕に、彼の温度を感じながら聞く。わたしはきれい。彼によるとなのだそうなのだ。馬鹿の一つ覚えくらいの頻度で言うのだ。そのくせ、彼はどうやら毎回毎回その事実に気がついて感嘆するように言うのだ。きみは、きれいだ、って。

「こっちを向いて」

 自分が視界に入りにくることはせずに、彼は言う。

「あたたかいね」

 わたしは心からあたたかい、と感じながら、そうねと答える。彼の心から溶け出したような表情を、彼の右側から眺めながら、あらためて「あたたかい」と呟く。

 

 知り合って、はじめてもらったプレゼントはピアスだった。片っぽだけのピアス。

 わたしの左耳を、まるで自分が腹を痛めて産んだ赤子でもあるかのような愛おしさで彼は触れて、わたしがそのことに人生でいちばんどぎまぎしている間にピアスが刺さっていた。彼の手が左耳から離れて、彼の顔が左耳から離れたとき、わたしはこの密度の心臓収縮が右耳ぶんも耐えねばならないのかと愕然としたのだったが、それはとんだ拍子抜けだったのである。

 図々しくぎゅっと結んでいた目を開くと、ピアスの片割れは彼の右の耳についていた。「ふたりでひとつだね」と彼は言った。わたしは言葉を失って、ただこくこくと頷いたのだった。

 

 彼がどうやらわたしだけではないということを勘付きはじめたのは、彼の左耳に、彼の右耳とは別のピアスを見つけてからだった。そのピアスは、わたしと分けたものと違って華やかでなくて、つけているだけといったデザインだったのに、わたしはそのピアスを目にしたときに激情に駆られたのだった。ほかに、いる。多分、甘い言葉を、右耳に囁かれる女が。

 その日いつものように彼の右側に腰を下ろしながら、なんてことないように彼の左手に触れてみた。瞬間、彼は何事もないようにわたしの手をするりとほどいた。わたしは今更のように思い出していた。彼が、わたしの左側にしか来ないこと。彼の、右側にしか触れたことがなかったこと。

「ぼく、右半身と左半身は別人格なんだ」

 彼は冗談めかして笑った。誰がどう聞いても冗談だった。けれど事実であると、どうしてこんなにもわたしは分かってしまうのだろう。泣き喚きたいでもない、何かを壊してしまいたいでもない、ただ顔を覆って泣き出したいという気持ちを、わたしはこのときはじめて味わった。

 

 

 甘やかという言葉が綿菓子なんかを指し示すのだとすれば、わたしたちの時間は甘やかでこそなかったものの、綿菓子の手触りは持ち合わせていた。 彼とわたしとの間に流れる空気、より正確に言い表そうとするならば窒素、というものは、帰りの電車のまどろみよりあたたかくて、同時に待ちわびるような「足りなさ」があった。この「足りなさ」というのは、「かなしみ」や「切なさ」という言葉では不適切で、結局辞書をひっくり返したのちに改めて「足りなさ」と言うしかない感情なのだった。

「あの大通りのイチョウが全て散ってしまったら、おしまい」

 わたしの左側の髪の毛を丁寧に梳きながら、ある時彼が突然言った。

「なにが」

 彼の発言に対して何かを尋ねることは、野暮なことと思っていたけれど、突然のことにわたしはぽかんとして思わず言った。

 「きみと、ぼく」

  彼が言う。

 わたしと、彼。

 「なぜ?」

 聞いても、彼は答えない。

 その沈黙を、彼は芸術作品のように扱っていた。彼が答えないのではない、時計が進むのを戸惑っているのだとでも言うように。

 「結婚するの?」

 唇がひらひらと動いて、わたしはそう問うていた。言いながらわたしは驚いていた。え、そうなの? 結婚するの? どうしてわたしそんなことを思ったの?

 彼は驚いたように頰をすぼめて、それからちょっとして、「うん」と言った。

 愕然としたきもちと、ああやっぱりというきもちが混ざり合って浮かんだ。考えてみたこともなかったのに、どこかで知っていたような、そんな気持ちだった。少なくとも、これだけは分かっていた気がする。というのはつまり、彼が、最終的にわたしのものになることはないということ。それが諦観なのか負け惜しみなのか現実逃避なのか、どれをとっても違う気がするけれど、まるで当たり前のことのようにそこにあった。それでいて化粧後のそばかすのように、全く気を払っていなかった。わたしはそのことが不思議であり、また同時にそのことすらも当然のような気がした。

 大通りのイチョウは、未だうつくしく道ゆく人々を染めていた。わたしはそれを見ながら、果たして散りませんようにと願うのが正解なのか頭を悩ませた。さながらスーのように? 

 別れ際、彼はわたしの左頬に口づけて帰っていった。触れたやわらかな唇の細胞ひとつ余すことなくシルクのような愛情が零れていて、わたしはさっきのことなど嘘でしかないように感じられて、だからこそ嘘ではないのだと悟った。

 

 

 時間に速度などなくて、一分はきっかり60秒で進む。くすんだ色のマフラーを、自分用に買った。同様に、彼と会う頻度は変わることはなかった。減りもしないし、増えもしない。彼の右手のひらの皮膚の肌触りを、必死に覚えておくことはしない。わたしはカウントダウンをするつもりはない。わたしの左隣で、彼がわたしの淹れた紅茶を神妙に右手でカップを持って、飲む。わたしはそれを両目で見ている。

 大通りのイチョウは、確実に葉を減らしていた。彼と出会ったのはこの頃だった。彼とこの季節を過ごすのは、ちょうど二度目だった。彼に教わったというわけではないけれど、日光の硬度を観察し始めた時期と、彼と知り合った時期はほぼ一致している。彼は、「うつくしい」という言葉をよく使う。わたしが、その世界、知ってるよ、という顔をして頷くと、彼はとても嬉しそうに笑うのだった。

「珍しいね」

「……」

「マフラー。そういう色の」

 この日わたしが機嫌を損ねていたのは、一昨日の彼の言葉を反芻していたからだった。

 きみの右耳で聞くぼくの声は、きっときみは嫌いだよ。

  腹が立ったのか、だとしたら何にだろうか。勝手に決めつけること? それでも彼の言葉が絶対であることをわたしは知っていた。彼が言うならそうなのだろうと思った。だから腹いせと言うのは少し違うと思う。ただ無意識に、わたしはするりと彼に言った。

 「結婚式、行ってもいい」

「……え?」

 こんなに、彼の表情筋が使われているのを見たのははじめてのことだと思われた。わたしはそのことについて、皮肉なことだと唇を歪めるかどうかに、しばし考える時間を費やした。

「……ごめん。ちょっと、びっくりして」

 嘘。びっくりしたなんて体のいい文句だ。引いただけのくせに。

 彼は、空を見上げながら「招待状、送るよ」と言った。指先だけを絡めて歩くイチョウ並木は、心臓が爆発しそうなほどうっとりとした色で、同様に鮮やかな、紅茶の色を思い返しながらわたしは「ありがとう」と言った。くすんだ色のマフラーに顔を埋めながら、正解の買い物をした、と思った。やや傾斜をつけて見上げる彼の顔は見慣れた右側で、初恋のようにどきどきとする。彼の睫毛がしばし動いて、わたしを見る。彼がやさしく微笑む。わたしは彼の右目をみて、確かめるように微笑む。安堵が眠気をもたらすというのは本当で、彼がちいさく欠伸をする。わたしはそれをじっと見つめている。

 

 

 数日して、部屋のポストに招待状が投函されていた。走って大通りを見に行くと、イチョウの葉はきれいに全て散り去っていた。欠伸をしそこねたような気持ちだけが、わたしにぐっとおしかかっていた。わたしは黙って、落ち葉を見ていた。落ち葉は、くすんだ色をしていた。

 

 

 そのようにしてわたしたちは終わったわけで、寒さの厳しくなるタイミングはちょうど重なったようだったけれど、彼が執拗に褒めたマフラーは依然としてあたたかかった。左耳のピアスは外すのを忘れたまま、カレンダーが新調されたりコートがクリーニング行きになったりした。

 冬が終われば、陽だまりを見つけることへの有難さは薄れていく。たやすく見つかる陽だまりに彼を投影する習慣が生まれるのは、当然のことだった。彼と過ごした日々は、わたしのなかでただ存在のみしていた。朝、起きること。トーストを焼いて、バターを塗ること(時々、マーマレードも塗ること)。パンプスを履くと背がすらりとなること、洗ったあとのケトルから滴る水滴は心地よいこと。夜は気温が下がることや、あつあつのお湯を張ったバスタブに肩まで浸かること。ふかふかの布団に、くるまって眠ること。そうした生活のひとつひとつを、意図してもしなくても呼吸はできる原理と同じように、わたしはしていた。日光の硬度に加えて、風の密度が気になるようになり、わたしは思う。わたしの選ぶ「うつくしさ」は、彼の口癖であったところの「うつくしさ」に重なり始めている、ということを。そのようにして、彼は既にわたしとして、わたしの生活にひたりと存在しているのだ、と。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「人生って、ケーキ作りに似てる」

 休憩中、ぽろっとこぼした一言だった。耳敏く拾ったのは同僚の女の子で、「え~なになに、どういうこと?」の一声で、その瞬間会話の中心に立たされていた。

「美味しく、なるには、ケーキ、たくさんの工程がいるから」

 死にたいほど嫌なことはないけれど、生きたいほどのときめきもない。決定的に宙ぶらりんで、楽になるなら絶望ですら望んでいた。なにか、感情を強く握りしめる、口実が欲しかった。

 自分の人生に価値を、自分で見いだせるのは、どれほど気の遠くなる毎日を塗り重ねた先だろうか。ぼんやりとそんなことを考えていたのが声に出てしまっただけで、追求されると言葉にするのは詰まった。

「ふーん。深いね」最初の女の子を筆頭に、その後、頭いいね、難しくてわかんない、ケーキ食べたくなってきた、と続く。その瞬間、自分でもびっくりするほど反発が頭をもたげた。まって。わたしは思う。まって、話を、進めてしまわないで。わたしはまだ言おうとしたことの半分も、きっと言えていない気がするのに、時計は正常な速さで回っているのにその時周りから人が消えた気がした。

 秋が、いそいそと帰り支度を整えていた。陽だまりを探して歩くけれど、もどかしい温度だけがそこにあった。今年の冬は寒くなるらしい。休憩がてら皆で囲んだテレビが、そう伝えていた。「温暖化どこいったんだよ」と誰かが言い、「独り身には堪えるッスね~」とおちゃらけ担当の後輩が一笑いを誘った。

 帰りに、パティスリーに寄った。縋るような気持ちで、ケーキを3つ選んだ。何かから守るように、あるいは何からも触れられてしまわないように。何度も何度も、昼間の同僚たちの、なんでもない言葉たちが浮かんで息が詰まりそうになりながら。ケーキたちが厳かに息を潜める箱を握りしめて、耐えるように家へ向かって、歩き出す。何を訴えかけるでもなく、ただ視界に映る道という道を知らない人たちが行き交う。頭では、彼らが同じ人間であるというのは分かっているのに、そのことが実感に辿り着く前にぺらりと落ちていくようだった。ざっ、ざっ、ざっ。道を埋め尽くすような数の個体が、各々の方向へ向かって歩いている。ここにいる人たちが、みんな何かを考えたり、思ったり感じたりする、「人間」であるなんて。ほんとうなの? そんな疑問のような思いから、気が遠くなる。わたしは、きっとわたし自身でもわかっていないほど広くて大きいものなのに、この個体数ぶん、そんなものがあるというのか。そう思ったら、視界を忙しなく行き交っていた影が全て、物のように見えた。ざっ、ざっ、ざっ。

 ――怖い。

 目眩に似たものがわたしを襲って、動かせていた、と思っていた足が思い通りにならなくなり、次の瞬間、わたしは転んでしまう。痛い、と思うより先に、大事に抱きしめていたケーキの箱から手が離れた。体の防衛本能から閉じられた瞳を、衝撃を感じると共に開く。喉の奥が、ズンと重くなった。少しでもどこか動かすと、何かが決定的に壊れてしまう気がした。

 そろそろと、目だけで惨状を確認しようとする。ストッキングは破れ、擦りむいていたが血が滲むほどではないようだった。ぐっと喉が固まる。周りからの視線を感じて、せめて道の隅に寄ろうとしたとき、はたとケーキのことを思い出す。弾けるように、あたりを見渡す。手を伸ばして十分届くところに、控えめでおしゃれなデザインが金色に印刷されたパティスリーの箱が、無残にひっくり返って、そこに佇んでいた。抱き寄せて、立ち上がる。足に力が入らなかった。よたよたと、歩く。一歩。二歩。三歩。むりだ、と思った。通行の妨げにならないことを確認すると、力が抜けたように、わたしは座り込んでしまう。

 冷えた指先で、抱きしめていた箱を開く。そこには、宝石みたいで、子供を慈しむように大切に繊細に作られたケーキが3個、並んでいるはずだった。パティスリーの凝られた照明の下で、ぬいぐるみのように優しく微笑んでいたケーキ。帰宅して、一人の部屋で、甘い音楽を流しながら口に運ぶつもりだった。そんなケーキが、潰れて、装飾はへんなところへ飛んでしまっている。倒れて隣のケーキに色が侵食し、たしかに美しさの一部だったはずのクリームが、箱の内側の壁にへばりついて酷く汚い。あんなに、あんなに。あんなに、すてきで、良くって、あんなに。わたしは、あんなに。

 うつくしいは、つづかないんだ。そう思ったら、涙が出てきてしまった。いい大人が、ケーキが台無しになったくらいで泣くなんて情けなかった。けれど、形のめちゃくちゃになったケーキを見た瞬間に、何かが壊れてしまった気がした。高校二年生のあの日、絵画のような日だまり、欠伸と細目に浮かんだ涙、えんじ色のセーター。わたしの歩幅と時計の速度。脳裏を駆け巡るものがわたしを縁取って、世界からの溝を深めていく。ああ、と思う。全てがわたしを置き去りにして、世界にひとり、わたしだけがぽつりとひとりぼっちだ。

 次から次へと浮かんでくる涙によってわたしの視界には膜が張られ、普段よりぼやけた景色の中でわたしの心みたいなものが、明確に形を持って削られていくのを感じていた。こんなに影はいて、これが人間だというのならば、道端でぼんやりと泣く女を人々は必死に視界に入れないようにしているらしかった。そのことがわたしのかなしみを助長した。だから、声をかけてくる人がいると思わなかったし、声をかけられていると気がついたときとてもびっくりしたのだ。

「どこか、痛いですか」

 低くて、少し掠れた声だった。今更だと思いながら、せめて今目に溜まっている涙だけは拭う。頰で乾き始めた跡も、見られたくはなかったけれどもう遅いと分かった。そうして、ようやくその声を発した影を見た。しゃがみこんでいるようで、視線は高さを変えることなくぶつかった。男の人だ、とぼんやり、それだけを思う。

 何か言わなくちゃ。口を開こうとして、しかし口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうでできなかった。微かに唇を動かしていると、青年は言葉を、ぎりぎりわたしに触れてしまわない場所へ置くように呟いた。

「……くるしいのは、つらい、ので」

 わたしの腕の中からケーキの箱をさらって、そっとわたしの左手に触れて引っ張り上げる。一瞬前まで、もう動けないような気がする、とまで思っていたわたしの体に、風が吹き込むようにするりと腰が上がる。彼が手を引き人混みから抜けるまで、この時間が壊れてしまいそうだと思った。それは数分前までの状態に酷似した予感とは、全く別の色を伴っていた。安堵というよりは驚きで止まった涙が、内側で温度が上がっていく。

 

 彼に従っていけば、喧騒から外れて、公園にたどり着いていた。明るすぎない電灯が古びて突っ立っていて、少しだけわたしの安心を誘った。空いたベンチにわたしを腰掛けさせて、彼が左手を解放しつつ言う。

「ごめんなさい、勝手に連れ出して」

 足元で、散々落ちて積もったイチョウの葉がかさりとなる。息を吸い込むと、枯れ葉の匂いがする。あの、とわたしは言う。嗚咽にならないことを口の中で確認して、もう一度息を吸い、丁寧に声に出す。

「あの」

 はい、と彼は言いながら、わたしの左隣に腰をかけた。近すぎなくて、遠すぎなくて、ちょうどいい距離だった。

「ケーキが、買ったんですけど、せっかく。ケーキが、壊れてしまって」

 声にしながら、だんだんとしぼんでいく。言葉にしてみたら、余計に情けなさが際立った。収まっていたと思っていた嗚咽が、喉までこみ上げる。周りの夜の色が、途端に濃くなったように思われて、心が縮む。こんなことで情けないんですけどわたし自分でもわからなくてそれだけどどうしようもなく止まらなくてわたし、浮かぶ言葉をシュミレートしてみれば、みっともないほど早口になってしまい口を噤んでいた。何を、しているのだろう。この人は知らない人で、わたしは今何をしているのだろう。

「胃の中を、見てしまったんですね」

 彼の声がした。声の告げた文章をゆっくりとなぞって、わたしはえ、と思う。息を吸う音がほんの小さくして、彼はまた声を発する。

「ケーキ、あんな風になるの、胃の中ではじめて、だから。嫌なものを、見てしまったんだなと思って。かなしいことだから。だって」

 だって、あんなにうつくしかったのに。

 その声が鼓膜を震わせて数秒後、わたしの脳に届いたとき、ぱりんという音がした。

 きっとそんな音はしていないのに、たしかにそういう音がした。

 何か言わなくてはと思うのに、何も言葉にならない。かわりに、内側で塊が突き上げたような嗚咽が漏れた。

 静かな公園のなかで、わたしはわんわんと泣いた。彼の気配を左隣に感じて、その気配からなんとなく温度を感じて、そのことで余計に泣いてしまった。このままなくなってしまうのかもしれない、と思った。子供みたいな声が、自分の喉からどんどんとこぼれていく。見つけた、と思った。何を、というのはわからないけど、見つけた、出会った、と思った。先ほど手を引いてくれた彼の手を思い出して、ようやく抜け出せるんだと、強くわたしは思った。

 

 わたしと彼との出会いは、それが全てだった。というより、その瞬間がこの世界で唯一の出会いだとさえ思われた。これから訪れる冬が助走前にした深呼吸のようなあのときの温度を、わたしは肌の表面で、冷凍保存したかのように思い出せる。そんなドラマチックな出会いをしておいて、ゆっくりと始まった恋だった。ゆっくりと始まって、ゆっくりと進んだ。それは彼と過ごすまどろみそのもののようで、それでいて芯の通った確実な時間だった。彼の右の瞳から、静そのものみたいな凪とわたしに対する熱をいつも同時に見つけていた。

 恋だった、とわたしは穏やかな手つきで紅茶を口に含みながら思う。彼が失われた生活は春を迎えていた。やわらかな気持ちで取り込んだ空気に、肺が季節の変化を告げていた。ここにも彼がいる、とわたしは胸を抱きしめて思う。空気に四季の色を付けていったのは、他の誰でもなく彼だ。それは、あの夜が、彼と出会った奇跡みたいであまりにもその幸運にいっそ地獄とも思われるあの夜が存在しなければ、ありえないことだった。厳しい冬の間に、わたしは彼の喪失を受け入れ終えていたのだろう。わたしの左半身が知る、彼の右半身の喪失を。

 さよならの代理とされた招待状に記された日にちが、来週に迫っていた。彼のまだ見ぬ花嫁を思って、その祝福が春のうららかな晴天に包まれるといいな、とちいさく祈った。

 

 

 迎えた当日を、わたしは驚くほど穏やかな気持ちで迎えた。祈りが届いたのか空は優しさを飽和まで溶け込ませた色をしていて、わたしの髪を巻くみずからの手さえも優しかった。彼の花嫁の趣味は、どんなものなのだろう。席から遠く眺める彼が、全く違う人になっていて分からない可能性を考える。そうであったとしたら、純粋な可笑しさでわたしは彼との思い出を綴じることができるだろう、と思った。

 左耳に刺さったピアスは、あのやわらかなマフラーの記憶が始まった日から触れなかった。わたしはそれを、みっともない執着とは思わなかった。外すという行為はわざわざするもので、そういうことは必要ないと思ったからだった。空がぴかぴかと光る夏、汗に濡れた髪をかきあげるとき、冷えて感覚を失いそうな冬、耳をあたためるとき、左手に触れた異物感でその存在を思い出す。彼の右手がはじめてわたしの左耳に触れた日、鏡を何度も覗き込んでは彼を微笑ませたけれども、その装飾のあどけなさを確認することはもうしなかった。彼がなにを思ってわたしに触れたのか、それは彼のこれからの幸せを祝う今日となっては不必要な考えに思われた。覚えているのは、そのシルバーの色。たぶん、光があたるとやさしく光るだろう。それはもう、わたしの体の一部なのだった。

 会場の内装は、どこまでもやわらかいクリーム色をしていた。オフホワイトの無機質性や攻撃性は、神経質なまでに取り除かれている。彼と、彼の花嫁が幸福に満ちて選んだこの会場を、わたしも、素敵だな、と思う。単なる幸せを見届ける高揚感に似ていた。わたし自身もまた世界の一部となって、なにもかもが門出を祝福している、と感じた。周りはもちろん知らない人ばかりで、けれどもこの人たちが彼を祝ってくれるのだと思うと、まるで皆が古くからの友人のように思えるのだった。

 式はあたたかで、穏やかに始まった。春が滑り込んでくるような、幸せが吹き込んでくるような雰囲気をまとっていた。一冬ぶりに視界に映った彼の姿に、ピアスのあたりがほんのり灯るような心地がした。目は、合わない。彼の存在感の曖昧さが、主役にも関わらずその輪郭の脆さが、わたしの視界の中で彼を明確に彼たらしめていた。続いて、花嫁が入場してくる。ふわふわで天使のようなドレスに包まれた女性はお姫さまのような雰囲気をまとっていて、きっと彼の日々を可愛らしく彩るのだろうと思われた。わたしは何かに怯えることも、驚くこともなくその時間を過ごしていた。彼と同じ空間を分かつことがこれで最後であるのは自明であったから、そのことにほんの少し心を甘くさせたりした。進行を務める彼の友人という人は深く響くバリトンで、心地良くわたしの鼓膜を震わせている。

 主役の二人は、誓約を終えていた。指輪交換に移り、見守る思いであたりが満ちる。二人はお互いの瞳の奥まで見つめ合って、ガラス細工のように指先を触れ合わせる。彼の右手を見て、わたしたちの日々のあたたかさをわたしは思い出す。どうかそれも託すことができたならーーそう願っているうちに、花嫁の薬指に指輪が、まるでふさわしいもののように吸い込まれてはまる。

 あ、と思った。

 それは予想も覚悟もしていない、唐突な激情だった。彼の右手が美しい花嫁の左手に触れた、左手に、いつもわたしの左手に触れていたように、彼の、右手で。

 花嫁が彼の手を取る。その光景を見届けただろうか。ハンカチを口にあてがい、音も立てずに会場を飛び出した。

 

◇◆◇

 

 冬を越す間に、高校の同窓会があった。えんじ色のセーターの彼は、暗い明かりの居酒屋の隅で欠伸をしながら最近隣に越してきた奥さんとの関係を声高に話していた。さびしい人は簡単だ、と酒に焼けた声が言った。

 

◇◆◇

 

 スタッフの人たちは、珍しいことではないのか目を真っ赤にしたわたしをそっとしておいてくれた。わたしは人気のないところまで走って、誰にも聞かれずに済むすんでのところで嗚咽を漏らした。なにか機能が壊れてしまったように、泣き声が次から次へと溢れる。睫毛の凍りそうな夜、はじめて想いが通じ合って触れた腰、 眠たげにすり寄せてくる頰、かなしみに蝕まれてしまう夜壊れないように握る手。彼の左側をわたしはいつも与えられなかった、けれど。けれど。けれど。

 彼が触れる左手は、わたしのものだったのに。

 彼の右半身の片割れは、わたしだったのに。

 だってわたしたちはふたりでひとつだねって、あなた以外を全て捨ててしまいそうなあのときわたしにピアスを挿しながらあなたが言ったのに、あなたがそう言ったのに、

 わたしはあなたの左半身に選ばれなかったのだ。

 唸るような声が喉の奥から零れ出す。溢れて溢れて止まらなくなる。彼の喪失を縁取ってきた今日までの日々はなんだったのだろう。まるで嘘に思えて、脳裏に花嫁の左手が、彼の確固たる意志のもとのマーキングが何度も込み上げて、獣のような激しさの中に、底のないその中へ落ちていく。潰れたケーキの味、彼と踏んだイチョウの鳴る音、季節の匂いと光の色、彼のためにケトルでお湯を沸かす時間、彼が褒めた睫毛、左耳に囁かれた確かな愛と証のピアス、世界が変わったような気がしたあの夜。生きるのが上手くなったと、錯覚していた。知っていたはずなのに、そうではないのだと思い違いをしていた、わたしはとっくに知っていたはずだったのだ、

 うつくしいは、つづかないんだ。

 ずっと続くと信じていた日々の裏切りがようやくわたしの精神に追いついて、わたしは何を考える隙もなく泣き続けた。

 

 

fin.

 

 

お題「左耳の小さな愛」

 https://odaibako.net/detail/request/b05af43fa4e243cd88b532b57ba97ddd 

 

 

 

 

*天橋立大賞2018

 

 昨年から私が勝手に開催している、その年一番のオリジナル作品を自選する「天橋立大賞」の季節がやって来ました。

 今年はどうしても1つに絞れないので、4つに受賞させたいと思います。

 順番は作品の発表時期に沿って。

 

◇◆◇

 

唇以外で封じたい、唇みたいにして

まるで、嘘みたいだと言うのでどこからが? と尋ねた、すると起源なんてあるの? と尋ね返されたのだ、きみは今が一秒前からの延長線上にあると信じているの、って。何も言えないでいたらさらに言うのだ、仮に地球の生まれた瞬間から今、うん、この喋っている瞬間という今の地点、が同一直線上にあるとして、そのどこかひとつが嘘ならばそれ以降は全て嘘のうえに築かれた世界だとおもわない? 今しあわせという気持ちも先の誰かの復讐により抱かされているものかもしれないし愛して愛されていることだってその命の工場は強姦かもしれないのに吸ってるという酸素だって実はメッキかもしれないしあの星がもう随分前に死んでいるように今届いている声も何億年か前に既に死んだのかもね調和を求められることもほんに地球が丸っぽいからなのかもしれないし見えている人影は残像かもしくは早く歩きすぎたのかも地球が研究当時のとおりに回ってるかも保証はないのに信じられるのは痛みだけだよねえ。って。そう。言うのだ。安直でいちゃ駄目かな軽薄でいちゃ駄目かな熱い粘膜が優しいってそれだけじゃ駄目かな、そんなことは言えないのでぎゅっと手を握って、ここから。と言ってみせる、ここからが起源、ここからはほんと。じっと目が合う、ああ、その眉下がらないように押さえていたい。

 

 

◇◆◇

 

ロックの巣窟

世界が滅びる5秒前。きみをめちゃくちゃに抱きしめる。骨も折れちゃうかもしれない、ごめん。世界が滅びる4秒前。花屋で一番高い花を一本買う。食べちゃったり空に投げちゃったりする。どうせ死ぬから許して。命に触れてたかった。世界が滅びる3秒前。きみを命ごとめちゃめちゃに濡らす。そんな顔しないで。そそる。世界が滅びる2秒前。窓ガラスとか割っちゃう。バイクは盗まない。腕で割ったら破片とか刺さって血が出そう。イタカッコよさぶって笑っちゃう。狂ってんじゃないかって心配されるくらい笑う。その間も血が流れてるとか、もうヤバイね。世界が滅びる1秒前。疲れて眠る。腹式呼吸で上下するおなか、いとおしいでしょ? 襲ってもいいよ。世界が滅びる0秒前。クソ、死にたくねえな馬鹿野郎誰だよ世界滅ぼしたの。俺じゃん。三年前ホテルで吠えながら祈ったお願いを思い出した。うっわ、超だせえ。はい、それではご臨終です。ま、俺だけじゃないけど。

 

 

◇◆◇

 

門番はアルタイル

http://madafumi.hatenablog.com/entry/2018/09/02/154502

なおこの作品はお題箱にていただいた「この世界は星の檻でできている」というお題によって誕生した作品です。素晴らしいお題をありがとうございました。

 

◇◆◇

 

臨終間際の恋文

 昨晩は久しぶりに冷房を切って寝てみたんだ。存外よく眠れました。うれしかったので、きみに教えたかった。星空を歌った音楽ですっきりと朝、目が覚めたよ。そのアーティストはもう何年も前に名前を変えて、今じゃすっかり人気者だよ。
 白をきみは怖いと言ったけど、僕は怖くないよ。宇宙船みたいで落ち着く。だけどきみが悲しむことを責めるわけじゃないよ。ひどい言いようだけど、きみが悲しいから僕は怖がらずに済むのかもしれないね。ありがとうって言ったらきみは怒るかな。怒ってもいいよ。きみに酸素があるなら何したって僕は幸せだ。
 しあわせ、といえばきみに思うことがあった。きみは磁石みたいだと言いたかったんだ。この世に存在するしあわせとか、うつくしさとか、愛とか、そういう清らかで尊いものが、全てきみのもとへ走ってくるね。きみのことが好きでたまらない、きみのそばにいたいとでも言うように。まるで摂理みたいに、正しく。それはきみの才能なんだと思う。きみに唯一詫びなくてはならないのはこのことだ。この世の全ての幸せをかき集めて、一粒一粒積んでできたようなきみのもとへ、僕という唯一の不幸が訪れてしまったこと。これはきみのどうしようもない魅力の引力によるものであるとはいえ、やっぱり、申し訳なく思う。だって、本当ならきみは涙を知らないで生きていくべきだったので。きみの涙は、きみのなかできみを守り続けるものであるべきだったので。
 実は毎日、折り紙を折っています。ロケットを折ってるんだよ。きみが寂しくならないように、そして怒らないように、きちんと毎日色を変えて、華やかになるように。だから、もし明日以降、僕に会いたくなったらこれに乗っておいでね。僕が星になっても、地球にその光が届くには相当の時間がかかるけど、宇宙まで出てしまえばきっとすぐだよ。すぐに、会えるよ。失敗しても大丈夫。そのために、こんなにたくさん折ったんだからね。千はくだらないよ。だけど、このロケットは紙製です。あくまでもそのことを忘れないで。つまりどういうことかというと、あんまりきみがぐしゃぐしゃに泣くとふやけて破けてしまうよ、ということ。
 きみは、天使の歌を知っていますか? 僕が初めて聴いたとき、とても、それはもうとてもきみに似合うと思ったんだ。空を覆う雲が厚くて悲しくなるとき、よかったら聴いてみてください。まるで、誰かに愛され、誰かを愛しているような、最高にハッピーな気持ちになれるから。
 

 さて、そろそろ時間が近づいて参りました。もう一度手紙を頭から読み返してね。何度読んでも文字が消えることはありません。だから遠慮なく何度開いてくれていいし、一緒に寝てくれていいし、いっぱいキスしてくれても構いません。やっぱり、僕はきみに引き寄せられた唯一の不幸だった。それを喜んだら、きみは怒るかな。きみは僕の神さまみたいだった。きみの、その、なんだっけあの、きみのさいのう、愛とかうつくしさとかそういう、ああそうだ、階段の蛍光灯は僕の友人に替えてもらってください。そして、きみの、しあわせになる、しあわせになれる、さいのう、しあわせに、しあわせになれ、愛して、い

 

 

 

(こちらの作品も、お題箱「しあわせになるさいのう」より。素敵なお題をありがとうございました。)

 

◇◆◇

 

 

 以上、4作品に天橋立大賞2018を贈呈します。

 上半期に集中していますね。下半期はなかなか奮わない苦しい時期でした。また書けるようになる日まで。

 ご覧くださり、ありがとうございました。来年も精進いたします。

 

2018.12.29. 夜 / まだふみもみず

 

 

軌跡

 

 星が、落ちてくる。


 爆発は遠くで見るから美しいのだーーとそのとき気付く。閃光はいくつにも割れて、落ちてくる。ここに来るのだ、ということに、予感めいた確信で、気がつく。地球全土の、ただ一点、緯度経度私の地点のみを目指して、星は、落ちてくる。


 夢を見ていた。

 

 小さい頃、神社の裏で、ひとりにしないでと小さく祈っている夢。はて。幼い頃、神社なんて近くにあっただろうか。なかった気がする。それでは、これは何の記憶だろう。ーー記憶? 

 そう、これは確かに記憶だ。それなのに、体験していることはありえない。それでも、こんな温度のある懐かしいという感情が嘘なのだとしたら、私はもうこの世の何もかもを信じられない。

 そういう温度の、夢だった。

 小さい体を、余計に小さく縮めて、膝を震わせて肩をびくつかせ祈っていた。ひとりにしないで。神様に脅迫しているのに近い願いだった。やだ、やだ、やだ、ひとりにしないで!


 星が、落ちてくる。

 

 閃光の先はいくつにも裂け、その全てが弧を描きながら私の元へ向かってくる。リボンだ、と唐突に思った。カンダタのように登って行く、抜け出すための道なのか、私を包みに来てくれたプレゼントであるのか、そういうことには思い至らなかった。それでもはっきりと、見つけてくれた、と思った。

 宇宙から見たら人ひとりなんて目視もできないのに、こんなにうじゃうじゃいるなかで私を。

 夢の余韻が、あたたかい脳に囁いていた。今、星を引き寄せている引力は、持つべくして持ったものであり、同時に何かが1ミリ違ったら今日は普通の一日だったということ。たとえば、昨日眠りにつくのがあと一秒遅かったら何も起こりえなかったと、いうこと。そのことがわかる、ということが、私はたまらなく嬉しかった。空は、よく晴れていた。喜びが踊った。今なら、何だってできる気がした。


 閃光が空気を裂いて、その波動は音楽を奏でた。空を掴むように手を伸ばすと、イヤフォンが立ち上がる。音楽が鳴っている。祝福の歌だった。星はこんな風に鳴くのだ、と思う、幸せに満ちながら。指先でイヤフォンコードをくるくると弄べば、燃えるように熱かった。そのことが嬉しかった。良かった、生きているんだ。生きているんだね、私たち。


 次第に私は落ち着きを持って、夢を回想していた。あれは、確かに思い違いなのかもしれない。なぜかって、私は願った覚えがない。正確に言うと、私にああ願わせたものに心当たりがない。ひとりにしないで、なんて。それでも、もうどちらでもいいな、と思った。そんなことは問題ではない。


 星は、どんどんと近づいていた。もう残す距離はわずか。

 一筋の細い閃光が一際こちらへ伸びてきて、私の髪をくるりと囲んだ。豊かな黒髪をーー実は結構気に入っている髪を、ふわりと撫でてひとつに結わえた。自分の内側から香る女が、強くなった気がした。

 さらにもう一筋、気弱な光が伸びてきて私の肌を撫でる。白くマシュマロのような肌に、くすぐったさが走って口元が緩む。

 星が落ちてくる。真正面にそれを見据えて、私の瞳も星になったような気がした。澄んで、美しく輝き、光を放つような。


 落ちてくる無数の光たちは、さらに先端が割れあるゆるものに姿を変えていく。夜空に映える五線譜。線路のレール。音楽を彩る弦。涙痕のようなピアス、流星を模したイヤーカフ、物語を紡ぐ文字に。ああ、私ーー

ぽろっと零れるように、思う。


 私、あなたに会いに来た。


 一秒一秒が尊く神聖なものに感じられた。きっとダイヤモンドでさえ、この時間に傷はつけられないだろうと強く思う。おいで、と念じる。強烈な光の束に、語りかける。


 おいで。あなたで私を、この宇宙ごと綴じてしまって。


 視界に突き刺さる凶暴なリボンたちを眺める。ほどいて歌にする。編んで天の川にする。難しい化学式を締め出そう。私たちを、何にも誰にも解明させない。これが最後だと悟りながら、はっきりと口を開く。

 

 私、あなたに会いに来た。

 

 

2018.11.15. Happy Birthday!