散歩に出た。

自分のこと、生活のこと
いのちのこと、日常のこと
人生のこと、欲望のこと

ぐるぐるぐるぐる、とりとめもなく考えたかったから。

◇◆◇

わたしには大好きなある小説があって、大好きが故にとても読み返せるものではなくて、6年も前だろうか、初めて読んで読み終えて、以来慎重に取り扱っている。
その本を。

なんだかんだようやくもう一度読む覚悟を固めたはいいもの、上・中・下に分かれたその3冊は、最初の一冊を手に取ってページを捲るごとに、心の中で警告音が鳴り響く。うるさい。

今ならまだ引き返せる。もう読むな。

わたしはその理由を知っている。またこれを読み終えたら、どれだけの喪失感に心を壊されるか。

最後の最後のページを閉じた瞬間、この世界がわたしの生きる世界線に存在していないことを、はっきりと思い知らされるのだ。彼に会うことも彼女の声を聞くことも、叶わない。一緒に生きることなんて、ましてや、できない。それが辛くて、どうしようもない。苦しくて、さみしくて、切なくて、今すぐ消えて彼ら彼女らと同じ世界に生まれたい。って、そんな感情に徹底的に打ちのめされるほど。

ファンタジー冒険もの、とでも言えようその物語は、あの頃読んだわたしと違うところをずきずきさせた。
逃げ道を。
逃げ道を探している、たぶんわたしは、今の、わたしは。だって上巻で泣いたりしなかった前は。
逃げ道が欲しくて、けれど読み終えた時の世界の存在しない実感を知っていて読む前に自分にそれを再確認した今のわたしには、逃げ道が欲しいという感情が浮かんだことが酷だった。

旅人の物語。
読みながらわたしは、どうして毎日成すことにこんなにつまらなく感じるのか、そんなことを考えた。
毎日、結局は、家に帰るからだ。
その日どんなに進歩なことをやり遂げたとしても、家に帰るのだ。ルーチンのように。それは、ちっとも進んでいないように思えた。
とんぼ返りだ。
旅人は、毎日、歩みを進めて、進んだところで寝て、また次の日進む。そうしたい、と思った。
とんぼ返りするだけの毎日。結局なあんにも、進んでいない毎日。物理的距離は、いつまでたっても立ち尽くすばかりじゃないか。だから、つまらないんだ。そっか。


そんなこともあって、夜、ただただ歩きたかった。
イヤホンを持たずに、外に出た。

そうそう、その小説は、結局、上巻を読み終えてから恐ろしく消沈したというか、なんなんだろう。
飽きたのと違う。満足したのでも違う。怖くなったのとも、違う。
訪れたのは、唐突な、終わるべく終わる感だった。ヘンな感じ。


散歩の話に戻ろう。
ぐるぐるぐるぐる、頭を混沌とさせるはずだったのに、なんだか頭が空っぽになっていく。

本屋の入っているまあまあなスーパーを通りかかった。一瞬の逡巡ののち、中に入る。これが良くなかった。
いや、良かったというべきなのか。実際のところ、どっちでもないそもそも良いとか以前の問題なんだろう。

スーパーは、あまりに生活感がごった返していて、先ほどの小説に対するまさしく中折れ感とでもいうようなものは、一層強くなった。頭も、白米から糖をむしり取ったばかりという理由で機能しない時以上に、ぼんやり動かない。

椅子とテーブルがあって休憩できるスペースへ行き、腰をかけた。ぼーっとする。自販機に100円をいれ、パックのココアを押した瞬間にその下にリプトンのミルクティー(100円)を発見して愕然とする。こっちにすれば良かった。

ココアをストローでちゅうちゅうと吸う。後ろでは、予習をしている男子中学生か高校生の一行の声がする。
そういえばつい最近にココアを飲んだんじゃなかったか。ならなおさら、ミルクティーにすれば良かった。

◇◆◇

それにしても、と、思う。
昨日一昨日はちょっとした合宿で、昨日は鍾乳洞やら滝を見るためちょっとした山登りやらしたにも関わらず、今日はお昼には起きたし夜にも外を出歩くなんて、よほど元気になったと、そんなことを思う。

昨日、ようやく合宿が解散して、それでも同じ路線は同じ路線で固まって帰ったらしかったが、わたしはしれっと抜けて一人でさっさと改札を抜け一人で座った。その瞬間の、幸福ときたら!
なんてひとりは素敵だろう。やっぱりわたしは、ひとりでいるのが好きだ。
女の子たちの、一緒にまとまっていないとイヤ、ひとりでいるのは不安だというあの空気感がどうしても駄目。イライラしてきてしまう。人と喋るのは決して嫌いじゃないが、一緒にいるのにわざわざ申請や許可を経ての一連の動作を見ているとそれすら苦行に思えてくる。
ひとりでいればいいじゃないか。知り合いのいないことなんて、友達がいないことなんて、ちっとも恥ずべきことなもんか。


夜道を歩くには、色気も可愛さもない服装が一番だ。ぼさぼさの髪で、似合わない眼鏡で、財布とスマホだけを入れたポシェットを斜めがけにして歩く。
歩く姿勢は、しゃんと。
いかなるときも、座るときも食べるときも、姿勢だけは綺麗でいたい。そんな気がする。だから、いつもそこだけは気をつけている。

顔中のソバカスがコンシーラーで隠れなくても、汚いいちご鼻が顔のパーツ配列そのものを一層酷く見せていても、姿勢だけは。

きれいにラインを見せてくれるワイヤー入りのブラじゃなくて、ぺったんこにしてくれるスポーツブラにしてくれば良かった。そんなことをちびり、後悔してみたり。
まあ、そんなことはほんとは、どうでもいいんだけど。
まあ、そんな格好だから、きちんと身支度をした日は寄ってくる美容院のキャッチも今日は寄って来ない。

◇◆◇

結局頭混沌とんとんとんとんのお散歩は叶わず、所帯じみたスーパーをうろついて、帰る。
100円のココアが甘かった、それだけの、外出だった。それ以上もそれ以下でもなく。

でも、美味しかったけどね。ココア。100円だったし。


*月だってさ、月だよね ふみ

‪喧騒から、少し外れたところに、住んでいる。緑が、多い。何か物足りないと思ったら空が空であることですなわち空を見渡せてしまうことは違和感で、わたしの空にはいつも遮る山があった。連なった山。山らしくない山。その山らしさの消失は、何年も何年も見慣れてしまったことからきているのだろうか。‬


駅には、シュークリームのお店。いい匂いがする。そのあまーい匂いがわたしの鼻腔を満たしたとき、わたしの心は、満ちた、と感じる。


そういえば、高校の通学の途中にもケーキ屋さんがあった。毎日そこを通って、朝の仕込みの匂いを嗅いで、ひとりでににやにやとして、通学のちょうど中間あたりにあったその地点で残りの通学路への気合を補填したものだった。


そんな懐かしさに、なんとなく、また通学の途中にシュークリームのお店があることが、何かの縁であるような、そんな気持ちになる。

わたしとシュークリームは、分かち難く結びついている。月と名を並べたいがあまりすっぽんになりすますような気持ちで、わたしは、シュークリームに恋い焦がれた気持ちを抱く。焦がして焦がして、クリームブリュレも作りたいね。


気持ち気持ちと並べたためにちょっとこの三文字に酔った。

まだ、取っている講義の全てを受けられては、いない。電車に揺られ、きちんと校舎に出向いて、せめて一コマだけ受けるでも精一杯。


昨日は故郷のちょっとしたお祭りがあって、知人で会いに行きたい人がいたから「魂だけ伺います」と拗ねていたのだけれど、夕方にはなんだかやたらと眠たくなって、自習室で少し、居眠り。

その夜その知人から、「なんかもやっとしたもの見えた!」と興奮気味に連絡をもらう。ぼんやりその字面を眺めていると、はたと、その時間は寝こけていた時間ではなかったかと、思い至る。

もしかして、本当に行けたのかもね。ああせめて、それならせっかく会いに行ったというのに会った記憶が保持されていないのが惜しまれる。

「次は肉体も飛ばせるといいね!」

ほんとにそうね、どこでもドアもいらないわね、と思いながら、修行しますと返信してそれから、魂だけ行くと私が言ったことを覚えていてもらえたことに、今更気がついて嬉しさが弾む。ぽよんぽよん。


ぽよんぽよんぽよん。昨晩は、ようやくきちんと食堂の食事を摂った。一歩ずつ、一歩ずつ。蟻の一歩であっても、誰にも認めてもらえないにしても、わたしはこの一歩をきちんと自覚しよう、と、思う。



昨日はメイク用品を買い足した。行けないと思って受けるのをやめた、講義の時間に。

花の入った、リップバームが可愛らしいったら。発色もいいし、保湿力も高い。それにしても、唇に色がついただけでぐんと印象は変わる。香りつきのものはとことん苦手なわたしだけど、ライチの香りは今にも甘い味がしそうで、気分が上がる。


そうそう、それに、前から気になっていた新しいマスカラと、そして偶然見つけた月のイヤリングを買った。その他、諸々。

イヤリングは片方が月で片方が星で、しかも長時間つけても痛くないようにデザインされていたから、これは、と思ったのだった。

わたし、多分、これに守ってもらえる。 なんて、そんなことを。



今日もお昼頃に起き出して、一コマだけはなんとか受けようと、予備校に向かう。いってきますね。ぽよりん。




*すっぽんと名乗れば、近づける気がしたの  ふみ

優しいと、思われたい。


優しい子だなって、いい子だなって、思われたい。


もう既に誰かのものである誰かが相手であっても好かれたいし、その瞬間対峙している相手の、その瞬間以外もいちばんであればいいのに、なんて、思う。


ばかみたい。ばかというか、気持ちが悪い。

けれど、そういう性質が自分にあるということを、段々、嫌々、自覚し始めている。


優しいと、思われたい。

そう、言った。

何が問題かって、実際は優しくないから、思われるはずがない。し、思われてはいけない。と、思う。わたしを優しいと相手が感じた瞬間、わたしの相手への振る舞いは嘘であるし、くどいようだがわたしは優しさから対極で生きている。


人に優しくあるには、臆病でいちゃ出来ない。


臆病だから優しくできるって、そんなロジカルな話は置いておく。わたしが話したいのはそんなことじゃなくて、そんなことのようでいて、どんなことでもない。


優しいと、思われたいと、思う。

けれど、わたしが自分の首を締めないで生きるためには、極力最低限人を傷つけないような生き方が、今のところ、当たっている。

可もなく不可もなく。そんな存在。


優しく仕方がわからなくて、一度優しくしてしまうと身を滅ぼすまで気遣いを張り巡らせてしまうから。

そんなのは優しさと言わない? うん、だからさ、一般的な定義の話をしたいわけじゃないからね、わたしは。


わたしは自分が息をしやすい環境をわたしに誂えることを決めたのだ。濃やかな気遣いはしない。気づかないようにする。けれど、傷つけることのないように。


そんなことを言っても、気付くものは気付く。そりゃ、長年の蓄積だもの。今までの自分だとここでこうしてたな、なんて、ため息の出るほど有り余る。


気づく。気づきたくないけど、気づく。後になって気づいたときなんかが、いちばん酷い。


あそこでこうしなかったことで優しくないと思われたんじゃないか。

あれ、でも優しく思われたがっているのかわたしは。

その欲に、自分の浅ましさをみて、心臓を冷却されたような苦しさ、というか、吐き気のする気分の悪さ、というか、そんなものが絡みつく。シナプスに、絡みつく。


それでもなんとか、「無理に優しくしない」という意識を保っているから、まぁまぁ、いいよねいいよね、ということにしてどうにか流しているけれど、だって万人に好かれようとするのは愚行だし、けれど、相手が本当に好かれたい相手だったらどうしようか、そんなことを、夜な夜な考える。だから寝不足なんですね。わかる。


相手のために構築されたものが建設する「好き」はどれだけ本物なのか。

そんなことを言えば、感情の本物偽物の境は、どこなのか、そもそもあるのか。

感じたものを全部信じるしかないんだね。そんな風に、思う。

あ、嘘言ってるな、って思っても、「あ、嘘言ってるな、って思ったようなこと」ごと現実であるのだ。はぁ。難しいね。


 

ブログの方向性がどんどんブレてゆく。今日もお月さまは美しゅうございました。昔の人は、月と情事を交わしたいと切に願ったことはなかったのでしょうか。わたしが今と違う性別で生まれていれば、月を指標にエクスタシィに走ったのではないか、今日はそんなことを思わせる月でございました。


では、今宵も、徒然に。



*お月さま、あのね、 ふみ


東京の夜

コンビニへ行く。


わたしの住む寮は、朝と夜に決められた時間内に食事を提供してもらえて、もちろんその時間帯が不都合であれば取り置きを頼めるんだけれど、


2日目。入寮して、2日目。朝も夜も、食べに行けなかった。

人と顔を合わせたくない。人のいる空間に居たくない。そんなわたしの塊みたいな感情によって、全身を鉛にされて。作り置きを頼みに行くのもしんどい。


今日は、フォロワー様のコンサートに招いていただいていた。遠く、3時間以上もかけてわたしの舞台をはるばる観に来てくださったお方で、そればかりかとても舞台を楽しんでくださって、一緒に写真まで撮ってくださった。

年齢的にも、年齢を加味しなくとも、姉のように慕っている。

前日になって急であるにも関わらずチケットを用意してくださって、演奏をお聞きできるのも真剣に楽しみにしていたのに、だ。

部屋から、出られなかった。


一年間引きこもっていたとはいえ、ここ数ヶ月、一人暮らしでも毎日なんとか過ごせていたのに、と思う。

ああ、あの日々のどうにか維持した安寧は、毎日稽古で、好きかどうかは置いておいても知った人と会い会話ができるということに保証されたものだったのだ。そんなことに気づいてみたり。



22時を過ぎて、ようやく、さすがに朝から水しか口にしていないので、眼鏡をかけてマスクをして、外へ出る。



真っ先にしたことは、マスクを外すこと。

呪われた習慣のように空気の味を確かめて、ああ、と、とっさに思う。故郷の空気は、甘かったな。


けれどそれでも、ぱっとあたりを見回すとよく分からない形によく分からないものがよく分からない色で遠くの方に見えて、なんだか楽しくなった。足だって鉛でちっとも軽くもなかったのに、つい走ってしまった。コンビニまで。


玄関からすぐの横断歩道は、かなり広く車通りもあるくせに、信号がない。運転手さんとの譲り合いみたいで、ちょっと、ちょっとだけ楽しい。


夜、知らない街、コンビニ。ちょっと怖かったけど、なんだか気分がいい。

今日も、お月さまはきれいで、まるでわたしのためみたい、わたしを励ましてくれてるみたい、そんな柄にもないことを思うほど、きれいだった。


半袖に、手持ちの中で一番薄手のカーディガンを羽織ったけれど十分暑かった。さっさと脱いで腰に巻き、結んで、腕に触れる空気を感じる。ああ、今年、外で、この腕に空気を触れさせたのは、初めてのような気がする。



明日、明日は、5年ぶりくらいに、小学校のときの同級生に会う。なんとなく連絡がきて、いつかご飯いこーと言われていた、いつもならスルーして社交辞令と捉えて済ませてしまうけれど、ちょっぴり勇気を出して自分から連絡をいれてお誘いする。

まあ、気乗りしなくないといえば嘘になるけど、とりあえず何かしなくちゃと、思ったわけだ。


コンビニで、唐揚げ丼とワッフルを買った。公演期間に5キロも体重が増えたというのに、呑気なものだ。


帰宅して、コンビニの袋をまさぐるがウェットティッシュがなくてちょっとヘコむ。そんなことにヘコむことにヘコむ。そしてブログを打ちながら、「たべにいけなかった」を真っ先に「食べに行かなかった」に変換するスマホに、ヘコむ。責められているような気持ちになる。


なんだろう、ブログを書こうと思うと、瞬間たくさんの言葉、考えは溢れ出してきてその一文字一文字に胸が踊るのに、いつも掬いきれていない気持ちでいっぱいになる。文字に起こすという作業を、昔の人は、なぜ始めたのだろう。面倒で、打ちのめされて、もどかしくて、そんな作業。マゾ? マゾなの?


そういえば最近マゾヒストという言葉をよく使っている。もう無理生きるの辛いいやだいやだ投げ出したい逃げ出したい、瞬間に、私はマゾ私はマゾと唱えて一瞬にして全てを俯瞰する必殺技。

説明すると長くなるので割愛するけど、役者はマゾだと思っているので生きやすくなるためにもマゾであろうと、そんなことをぼんやり考えている。


ああ、もう忘れてしまったに違いないけど、コンビニからの道すがら、わたしの胸をときめかせたわたし産の何かしらの言葉があったはずだ。もやもやする。残尿ってこんな気分なんだろうか。


まあ、また書こう。一発で全て完結しないから、生活というのは続くのだ。そうなのか。よくわからないけど。そういうことにしておこう。面倒くさがりだ。けれどこうしてブログを書いているから、文章に残すということを始めた祖先には感謝しよう。覚えておくため、後世に残すため? 今はなんかそんなロジカルなことは考えたくない気がする。

今宵はただ、彼女のコンサートの大成功と、素敵な夜を祈って。

それと、寮内でもマスクが外せるようになるといい。


ところで、近所にはどちらもあるけど、ファミマとセブン、あなたはどっちがお好きですか?

通信制限がきている。


から、この文章はメモ帳にぽちりぽちりと打ち込んでいる。ブログにアップするのは、Wi-Fi環境のある自室に戻ってからだ。



引っ越しをした。A県から新幹線で3時間のB県から、B県から新幹線で3時間のA県へ。


住むところは寮みたいな寮じゃないみたいな、そんな感じのところ。食事は基本一日2食出る。洗濯機のみ共用だ。


本日入寮してものの数時間、もう耐えきれなくなり外に散歩に出る。今日は日中細々とした買い物に歩き回りもう動きたくない心境だったにも関わらず。


西の空に紫だちたる雲がもわもわとたなびいていたので、思わず引き寄せられるようにそちらに歩く。カメラを構えたが、やめる。どうせすぐ消えゆくカラー。目に残しておこう。


ベンチに腰をかけて、ようやくマスクを外せる。マスクが世界から消えたらわたしはどうしようか。マスクを追って、過去も未来も、星座も超えられるかもしれない。


出不精のわたしが散歩に出るくらいだから、環境はとても素敵なところだ。心地よい。これだったら、毎晩のジョギングだって続いたりして。今日は、疲れたからやらないけど。



ところでわたしはチョコミン党なので、発売後から虎視眈々と狙っていたファミリーマートのチョコミントフラッペを買いに行く。財布と反比例して、ああ、最近やけにお腹がぽよりんぽよりんしているようだ。


まだ空の青の密度が高いうちから、今日も月は見え始めていて、この間と同じ、白みの強いその光はまるでカップからスプーンで掬ったバニラアイス。ああ、口の中は既にレディー・チョコミントだけれど、バニラアイスも食べたくなってしまった。


◇◆◇


コンビニでチョコミントフラッペを買う。食べ方を教えてくれた店長さんはナイスガイ。若いときはさぞモテたんじゃなかろうかと、余計なお世話を焼く。おっと、あんまり焼いてはアイスが溶ける。


再びベンチに腰掛けて、さっそくいただく。駅を出てすぐのところにあるコンビニだから、まるでチョコミントフラッペを飲みたくて我慢できず途中下車しお金を払う間も惜しくしゃぶりついている人みたいだ。少し、笑えた。



わたしもだんだんと、ここの風景になっていくのだ。道ゆく人を眺めながら、そんなことを思う。そしてだんだん背景へとなっていくのだ。なれるのだろうか、わたしに。


半袖に軽く羽織っただけの格好できたわたしにはそろそろ吹く風も冷たさで帰れとの警告を寄越す。寒い。帰ろ。


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*月が真上に ふみ

短期的かつ短絡的人生にみて結構な危機に陥っている。


つまりここ数ヶ月、声が出ないのである。

幸か不幸か、1週間足らずで主演舞台が控えているにも関わらず。


原因は分かっていて、いるだけども、どうにもしようがなく途方に暮れている。だってこの症状は全部心因性だから。

もちろんワカバみたいに通院をおサボりすることもなく過ごしてはいるけれど、それにしたってどうしようもないよなぁ、と思う。


家庭のこと、他人のこと、自分のこと、家庭のこと、家庭のこと。

認知療法なんてものもあるけど、こんなに幾つもの自覚を持ったにしても、ストレスの原因を回避することは困難を極める。だって現在は学校にこそ在籍していないものの、学生。経済の点にのみ焦点を絞っても、とても自立できる状況ではないし。 

そもそも、心因性の諸症状に対して「ストレスのない生活を」という助言はいかがなものだろう。そんなこと可能だろうか。わたしには生がストレスそのものに思える。一番のストレスフリーは、バー・生じゃないか、って。


それにしても、人体て本当に不思議よね、と思う。

思っている以上に心と体は密接にリンクしている。もうずぶずぶ。

通院を始めたころは、「え、こんなこともこんな症状として出るの?!」と何度もたまげたものだ。



胃が膨れている。

けれど、お腹が空いた、と感じる。

仕方ないから、ボウルにいっぱいの野菜をフライパンにぶち込んで、炒めている。

あからさまな生の象徴じゃないか、空腹なんて。忌々しい、と思う。生を受けていることに、それが継続されていることに、無性に腹が立つことが、時々、ある。


そもそも生がどうして世の前提なのか、わたしは幼いころから首を捻っている。ねじねじねじねじ、捻っている。クロールの息継ぎは確か左でやっていたから、きっと最初に捻ったときが左に捻ったんだろう。


だって、ものすごい理性の総動員で、カロリー消費を要して、やっと生きることとは執り行いその上継続することができるのに、そこに自らの意思は不可欠なのに、生の誕生には自らの意思は一切関与できないなんて。

なんなんだろう。このどうしようもなさ。もだもだ感。


油で炒めただけの野菜たちが、やたらいい匂いをさせ始めた。かさを減らせるもんなら減らしてみな、そんな表情で挑戦的にフライパンに居座っていた野菜たちは茶色くしなびている。

ふふふ。美味しそうな匂いをさせやがってさ。まあきっと、匂いほどは美味しくないんだろうけど。料理はそんなに得意じゃない。



人生って、宗教じゃないかと、思う。

生が正しいという価値観の信仰。(もちろん、否定しているわけではない)

法とか愛とか、目に見えないものの存在の信仰。

楽しいとかの感情だったり、何にしろ、生きる意味に値するなにか探しin人生。物でも人でも概念でも。


ずっとそれを、信仰したいものを、探している。探しながらないと泣き喚きながら駄々をこねながら、けれど芝居にわたしは生かされている。


一時期、芝居ができなくなったことがあった。芝居だけが、できなくなった。

一気にたくさんの身体症状がガタとしてきて、何ヶ月もかけてゆっくり回復してきたところだった。

それまでは、芝居も何も、ただ息を執り行うことができなかったから芝居ができないのも多少の諦めはついていた。

けれど、なんということか、普段大丈夫な諸症状が、芝居に関わった(考えるだけでも)瞬間にぶり返すのであった。

そのくせ、芝居を頭から追い出すとぱたりと止むものだから本当に気に食わない。気に食わないし、解せないし、許せないし、やるせないし、悔しいし。し、し、し。

「ああはいはい。お芝居金輪際やめりゃいいんだろ?!?! そしたら元気になれるんだろ?!?!?!」とヤケクソにキレてキレてどうしようもなくキレて、そんな決意をした途端、身体的に穏やかな毎日になった。


けど、困ったのだ。どうしようもなく、困ったのだ。まだ短い人生経験においておそらく一番、困ったのだ。

何のために朝起きるの?

切実に答えが見つからない。

今は置いといても、これから先も生きていても芝居をやらないのに、何のために朝起きるの?



あの恐ろしさは多分ずっと忘れないだろう、と、思う。

同時に、もうあの絶望は味わいたくない、と思う。

そんなことを言っても、芝居に触れると症状がぶり返すというのは、治ったり治らなかったりの波がありながら、今に至っている。




冒頭でもちょこっと触れたけど、今週には主演舞台を控えている。

オーディションを受けた時期は少し体調も落ち着いていて、稽古が進むにつれ体の調子も良くなるようには思われた。けど、これだ。


役者たちが発声をしている間、わたしは廊下に出てこっそりと泣く。悔しい。悔しい。悔しくてたまらない。

苦しくても疲れても頑張って通院してお話をして、ぱっと開けたくらいたくさんのことに気がついて自覚があらわれて、今わたしは稽古が楽しいと思えていて、好きなことをできていて、きれいに声が出るイメージもこんなにできているのに、喉が痛い。痛くてたまらない。喉がつかえて、痰が絡んで、声はかすれて、悔しさに右腿をよくぱんぱんとはたく。


やっぱりわたしにはまだ無理だったのかしら。けどそんなこと思いたくない。

できていたい。声がきれいに出て、お客さんを虜にできて、ううん、そんなことより人ならざる存在を感じて、わたしの血肉にエクスタシーと魂を注入されたいの。


喉が痛む。きりきりと痛む。

不味い薬と、生姜と大根と蜂蜜とを流しこんで、大好きなチョコレートとアイス、それに牛乳はもう1ヶ月も断っている。この瞬間の時点で、世界でいちばん喉にいい生活を送っているのはわたしじゃないかと、そんなことを、思う。



野菜炒めめいたものは、不味くもなくとりたてて美味くもなく、さっさとわたしの胃袋に飲み込まれていった。ああ生の象徴。


あと1時間と少しもしたら、見たいアニメが始まる。多分、もう少し何かつまみたくなって、悩んで、部屋をうろうろしたりしているうちにアニメの時間になって、そうしたらアニメを見終えて、眠くなって、寝て、明日は日曜日だから目が覚めるまで寝るんだろうと思う。けれどいつかはどうせ目が覚めてしまって、いつも願っているように別の人の人生になっていることも叶わずに、24時間後の今も野菜を炒めているかもしれない。

はぁ。思うだけでため息が出る。

とにかく、そんな寿命更新制で、結局今日を、生き終えようとしている。



*月のお迎えを欲して ふみ

~しがない舞台役者の飽和的自己満足晴らしの巻~

 

 

とらわれている。

どうしようもなく。がんじがらめに。

 

わたしと芝居の契りは、男女のそれとは到底比べものにならないほど密なもので、人間として未熟なわたしはそこに生死を託さざるを得ない。

苦痛なまでの拘束力(物理でなく)に頭を抱える。へへ、嬉しいくせに。片思い中の苦しさのようなものだ。

 

時々、胸を掻きむしってその跡に血が赤く点々と浮かぶ、そんな勢いで、「芝居やめてえ」と喚く。結構、頻繁に。

あるときは、能力が気持ちに追いつかないことで。

あるときは、単に穏やかな暮らしへの憧れで。

あるときは、買い物中に「ちょっとカフェ入ろうかな」と思う感覚で。

 

役者、いや、芝居に限らず全ての表現者にとって、表現は職業じゃなくて生きるジャンルではないかしら。そんなことを、思っている。

人間的成熟は自ずと表現者としての成熟に直結するんだろう、って。

人間として発展途上なわたしは、ただ、生からの逃避のために、そして矛盾するようだけど死を回避するために、芝居をしている。

 

厳密に言うと芝居も「やる」ものじゃなくて「やらされる」ものだと思ってはいるのだけど。「意志がない」、ではなく、「意志の及ばない」。

劇は、遊び(play)であり、祈り(pray)であり儀式であって。やはり舞台は生き物だよな、としみじみ思う。

そこに、わたしは第三者 人為の及ばない存在を確信している。

 

役者が血肉を、そして精神を献上して破壊すらされるその代償に、時にとんでもないエクスタシーを与える。自らの血肉が、自分のもののまま、自分のものではなくなる感覚。それは「自分とは別の人生を体験できる」というやさしいものではなく、目の見えぬ大きな力に、自分をコントロールされているという、超絶的な快感。これはなにかしら、未知への防衛本能からくるマゾヒズムなのかしら。

だから「プレイ(劇)=play=pray」はひょっとすると、まさしく人対人の肉体交渉に相当するのじゃないかと、そんな風に思うわけで、

わたしは最近、もしかして役者という人種はめちゃくちゃエロいという説をこっそり掲げている。

 

《つづく》

 

 

* 月が見えない ふみ