~しがない舞台役者の飽和的自己満足晴らしの巻~

 

 

とらわれている。

どうしようもなく。がんじがらめに。

 

わたしと芝居の契りは、男女のそれとは到底比べものにならないほど密なもので、人間として未熟なわたしはそこに生死を託さざるを得ない。

苦痛なまでの拘束力(物理でなく)に頭を抱える。へへ、嬉しいくせに。片思い中の苦しさのようなものだ。

 

時々、胸を掻きむしってその跡に血が赤く点々と浮かぶ、そんな勢いで、「芝居やめてえ」と喚く。結構、頻繁に。

あるときは、能力が気持ちに追いつかないことで。

あるときは、単に穏やかな暮らしへの憧れで。

あるときは、買い物中に「ちょっとカフェ入ろうかな」と思う感覚で。

 

役者、いや、芝居に限らず全ての表現者にとって、表現は職業じゃなくて生きるジャンルではないかしら。そんなことを、思っている。

人間的成熟は自ずと表現者としての成熟に直結するんだろう、って。

人間として発展途上なわたしは、ただ、生からの逃避のために、そして矛盾するようだけど死を回避するために、芝居をしている。

 

厳密に言うと芝居も「やる」ものじゃなくて「やらされる」ものだと思ってはいるのだけど。「意志がない」、ではなく、「意志の及ばない」。

劇は、遊び(play)であり、祈り(pray)であり儀式であって。やはり舞台は生き物だよな、としみじみ思う。

そこに、わたしは第三者 人為の及ばない存在を確信している。

 

役者が血肉を、そして精神を献上して破壊すらされるその代償に、時にとんでもないエクスタシーを与える。自らの血肉が、自分のもののまま、自分のものではなくなる感覚。それは「自分とは別の人生を体験できる」というやさしいものではなく、目の見えぬ大きな力に、自分をコントロールされているという、超絶的な快感。これはなにかしら、未知への防衛本能からくるマゾヒズムなのかしら。

だから「プレイ(劇)=play=pray」はひょっとすると、まさしく人対人の肉体交渉に相当するのじゃないかと、そんな風に思うわけで、

わたしは最近、もしかして役者という人種はめちゃくちゃエロいという説をこっそり掲げている。

 

《つづく》

 

 

* 月が見えない ふみ