愛があれば、大抵のことがどうにかなる。わたしは本気で、そう、考えている。言ってみればドラえもんの四次元ポケット、古くなった時計にとってみれば新品の単三電池二本、といった具合に(ここで言う愛があれば~、は『好きなら出来るでしょ』という例の暴力的なワードのニュアンスではなく愛情を自分の感情としてリアルタイムに所有していれば、という話だ)。雪山で遭難したって、逃げられるどこでもドアより体温をあたためてくれるなんちゃらというひみつ道具より、愛さえあったらなんとかなるような気がする。大体、本当に雪山で遭難したら欲しいのは助かる手立て以前に、もう駄目だという絶望に押しつぶされない穏やかな安堵じゃないか。とわたし――杉原花恵は思うのである。
成人してもまだそんなことを言って、という言葉は成人したばかりのまだ瞬き途中の少女には違和感を引き連れてくる奴だった。瞬き。ぱちり、ぱちり。それは、あ、もうハタチなのね、わたしの飲酒合法的なのネという困惑の瞬き。現実に現実感を持たせようと瞳を潤すための瞬き。わたしは、先月二十歳の誕生日を迎えたばかりだった。
そりゃアね。わたしもね。ハタチの自分がこんなにハタチらしくないとは思いませんでしてよ。あと三年でもう二十歳かぁ、と感慨に浸っていた十七の自分がタイムワープして今のわたしをやっているかのようだ。
そしてそんな状態で、睫毛を何度も摩擦させているガールの反撃として、わたしはただの夢見さんじゃないと言わせてもらいたい。
愛があれば、大抵のことがどうにかなる。ドラえもんの四次元ポケットにも劣らない、愛があればなんでも。
ただ、手に入れるのが極めて困難なだけで。
◇◆◇
「おでん、夏に、食べたい?」
「どうして?」
「今後に関して重要なこと」
目が覚めた瞬間にラムネが連想される日だった。ラムネそのもの、ではなくて、ラムネが飲みたくなるような日。
食堂で、わたしは刺さるような炭酸の刺激を口内に渇望しながら、向かいに座るリトに尋ねた。お昼どきにはまだ早いためか、人はまばらである。
「今後って」
リトが言った。半袖はしっかり肩がむき出しになるまで捲り上げられ、すっかり日焼けをしている。
「今後というか、今日の午後」
「だいぶ近未来だね」
「今後今後」
ガラス張りの食堂からは、外を歩く人の表情がよく見える。そのほとんどは学生だ。わたしや、リトと、大して違いのない数字を、年齢に掲げる人たち。通気性の良さそうなポロシャツを着た男性が無意識にか喉のあたりを引っ込めている。首のあたり、ひっついて気持ち悪そう。つられてわたしは顔をしかめた。
「クーラーないと死ぬよな」
そんなわたしの表情を見たか見まいか、リトが食べ終えたラーメンのトレーをよけて、テーブルに上半身を投げ出してそう言う。わたしが外を眺めている間にも、リトは冷気を吐き出すクーラーと同じ頻度で「あつ」と呟いていた。「あつ」自動製造機。
それにしても、ガラス張りに「食堂」は似合わない。「カフェテリア」とか、そういう、ちょっと洒落た雰囲気を醸し出している。ふと、毎日このガラスに張り付いていても、きっと外を歩く人たちを全員覚えることはないんだろうな、と、思う。地球で生きる人間は七十億人、数字は知っているけれど、それでも、この大学ひとつをとってもこれだけの人間が生きていて、それがほんの一部と思うとくらくらした。くらくら、ぐらぐら。毎日といっていいほど目にするけれど、蟻地獄みたいに埋もれてしまうような気持ちになることもあれば、山々に囲まれて立ち尽くす旅人みたいな気分になることもある。ああ、吐き気がする。人の多さに酔ったのか、いや、単に気分の悪くなっただけかもしれない。わたしは一息に、テーブルの上の水を飲んだ。
「じゃあ近未来の予定は、任せた」
「うん」
それからリトの午後に取っている講義の終わる時間を聞いて別れた。
「朝ね、ラムネだ、って思ったの」
講義が終わって待ち合わせたリトを連れ出して、わたしはその横を歩きながらそんな話を振った。蒸す、蒸される、クーラーの庇護下からは絶対に出ないとごねたが、今日の行き先は残念ながら屋外だ。
「ラムネ?」
リトは小さな緑のプラスチックボトルに小粒のアレを想像したらしく、「ばあちゃんが駄菓子屋でよく買ってくれた」とひとりごちる。
「ううん、そうじゃなくて」
わたしはブラウスの首元を引っ張って言った。べとべとする。
「お祭りで売ってる。炭酸の方」
皮膚越しに触れる喉は一層ラムネの強いしゅわしゅわを欲していて、渇いた喉のぶん、想像のなかでその刺激は強く刺さった。ちくり、ちょっと痛いくらいの。
「朝起きて、目覚まし止める前にラムネの日だって、思った」
「そんな爽やかな朝だったの? 俺寝汗で寝起き最悪だったけど」
そうして少しの間、寝汗自慢の応酬になった。わたしだって、絞れそうだったんだから、パジャマ。俺なんか、いい歳しておねしょしたのか本気で焦った。
ラムネが飲みたい。
喉の真ん中で、線香花火を飼っているみたいだった。チリチリ、ちりちり。炭酸のフライング。ただ残念ながら、もっとズルく、昨晩からフライングスタートを切っているものが、わたしにはあるのだ。
「それで、ご予定は」
「ひみつ」
彼は半ば呆れたような、教えてとごねる駄々っ子のような顔でわたしを見下ろした。その身長差、実に25センチ。
それから、手を繋ぎたい、でも暑い、の何悶着かが(リトのなかでひとりでに、しかしなかなか騒がしく)あり、それも決着のついたころに、こぢんまりとしたお店が現れた。まあまあ人が並んでいる。「1ヶ 120円」と手書きで札が提げられていた。
「ここ」
鉄板の熱気と、胃をくすぐるような香ばしい香りが漂っている。たい焼き屋だった。この道50年の店主自慢のたい焼きはかなりの評判で、昨晩にその口コミを目にしてからわたしは我慢ならなかったのだ。
「げ。この暑さで」
リトの腰が引ける。ふたりとも喉はからからに渇いていた。
「たい焼きの価値観変わるって。食べようよ」
「うーんでも、もう少し涼しくなってからでも良くない? そんで来て食ったらいいじゃん」
「『今まで自分が食べていたたい焼きはたい焼きじゃなかった。23歳男性』」
「食べログかなんか」
「『今まで生きてきて、たい焼きのことを考えた時間はどれだけだったでしょう。ここのたい焼きを食べてしまってから、46年分で費やした時間以上に、一日あたりのたい焼きを想う時間が生じてしまった。よくも悪くも出遭ってしまった、というところでしょうか。47歳 女性』」
「無駄にポエミーだな」
「ちなみに、出遭うのアウは遭遇のソウだから」
「薄々察しはついてたよ……」
「お店の前でこの匂いを嗅いでおいて食べないなんて男じゃない。人じゃない。生物としてどうかと思う。20歳女性」
「それお前だよな? 今作ったよな?」
「あのね、リト」
子猫一匹通れない距離に迫ると、リトは押し黙った。
「わたしね。昨日ここをうっかり知ってしまってから、我慢がならないの。なんなら今日朝一で食べたかったくらいだわ。たい焼きが食べたくて、ほかほかの焼きたてのたい焼きが食べたくて、部屋を3周×3セットでぐるぐる回った。食べたいの。今、今日、食べたいの。食べずに帰ったら、今晩たい焼きがいっぱい泳いでいる餡子の海で溺れる夢を見ちゃう。うなされたくない。ね。食べようお金はわたしが出す」
気圧されたか奢るが極めつけか、渋々といった様子で、しかしリトは苦笑して観念してくれたようだ。
財布をしまってリトからたい焼きを受け取ると、リトが悲鳴を上げた。
「え、頭からいくの。慈悲がない」
「頭からの方がかぶりついてる実感がある」
皮膚が離したがる温度を、わたしたちは頬張った。日が差して、腕に浮いた汗からはこまめに塗り直した日焼け止めの匂いがした。
「だから、夏におでんを聞いたのか」
「うん」
「結局俺の答え聞かなかったけどな」
「言うの忘れてたでしょ」
「聞くの忘れてたじゃん」
あま、と、うま、を交互に呟きながら、リトの喉が上下に動く。耳はぱりぱりで、皮はもっちもち、それになにより餡子がぎょっとするほどぱんぱんに詰まっている。ああ、口コミに心動いたわたし、大正解。
「冬に冷やし中華は食わないじゃん」
リトが言う。
「でも、夏、クーラーがんがんかけて、あっつあつのラーメン食べたいでしょ?」
「あれは乙だな」
「夏におでんは不服?」
「屋外か屋内かで答えは違ってくる」
そもそもおでんじゃなくてたい焼きじゃんか、でもウマい、ちょっと目覚めそう、とぶつくさ口の中で言っている。
「120円ぶん、なんか奢る」
食べ終えてから、リトがいきなり言った。わたしはたい焼きのお布団であった包み紙を、小さく小さく折り畳みながら「なんで」と言う。
「美味しかったから」
「わたしの勝ち、と」
「でも現金で返すのはなんか違うから奢る」
「いいよ、別に」
「じゃあ、特に理由ないけど奢る」
「なにそれ」
「俺、たい焼きで初めてこんなに興奮したから、お礼で、今すごく甘やかしたい気分なの!」
突然の理屈に、ちょっと吹き出した。甘やかす=奢るの短絡的な方程式も可笑しいが、それ以上にその真剣さが笑えてしまう。
「いいだろ、別に理由なく奢ったって。……か、かっ」
彼女なんだから。
もう付き合って三ヶ月以上経っているのに、まだそんなところに照れる彼。わたしはそれを、まるで他人事のような気持ちで見ていることに気付く。困惑に固まった数秒の、吐き出すべき二酸化炭素をため息にならないように、細く細く吐いた。そうよね。とわたしは思う。わたしたち、恋人なんだもの。
「あー至福。やっぱりハマりそう。週1で食べに来よっかな」
結局120円でまたたい焼きを一つ買い、今度は二人で半分ずつ分けた。わたしがリトの左手から頭の側を受け取ると、リトはまた「慈悲がない」と嘆いてみせた。
◇◆◇
「リト」わたしが彼の名を呼ぶと、リトはいつも尻尾をはち切れんばかりに振ったわんこのように、勢いよくすぐさま飛んできた。
陸上のリクに、人工衛星のジンと書いて、リト。初対面でわたしは、堂々と「リヒト」と読み違え、「リクトって読まれるのはざらにあるけどリヒトは初めてだな」と、リヒト改めリトに笑われた。リヒトの方が、わたしは好きなんだけど。さすがに初対面でそれは口にしなかった。そして出鼻で口にするタイミングを逃すと、彼の熱心なアプローチにより二人の間柄が恋人に移行した今でも、もうわざわざ持ち出すことではない。彼にとってみれば、喋るきっかけになったからと言って、大層自分の名前を気に入っているみたいだけど。
「ねえ、はな」
リトはわたしをはな、と呼ぶ。お約束というべきか、まるで体にプログラムされたかのように、リトの声でその二音を聞くとくすぐったくなったけれど、わたしは花恵、と呼ばれる方が好きだった。花に、恵み。可愛らしい漢字。それに、可愛らしい響き。
「はなってば」
リトはスポーツをしているために筋肉があって、背も高かった。それに、甘えたがり。後ろからわたしを抱きしめて、わたしの背中にぐりぐり顔を押しつける動作は、ふわふわの子犬を思わせた。
「なあに」
「いい匂い。シャンプー、変えた?」
「ううん」
「えー。じゃあ、柔軟剤?」
「なんにも。なんにも、変えてないよ」
「んー? そっか。なんだろう」
はなの匂いがいい匂いなのかなぁ、と、リトはまたわたしの背中に顔を埋めた。
「背後じゃなくて、正面くれば」
「やだ。いい」
「ねむそう」
リトの声がふにゃりと溶けたので、天井を仰いで、呟く。
「ねむたい」
「昨日遅かったの」
「そうでもないね」
「そうでもない。でも、お腹ふくれた」
「たい焼きか」
「あー、たい焼きだ」
小さな、あ、を並べた声を上げて、盛大なあくび。口に出しては言わないけれど、ねむいじゃなくてねむたい、1時じゃなくて25時を選ぶところが、わたしはなんとなく懐かしかった。年下の幼馴染みとかいたら、こんな感じなのかな。いないけど。
「……ぁ」
「あ、あくびうつった」
リトが甘ったるい声でからかう。随分と甘えたなこと。随分と甘えたなときは、随分とおねむだ。
「はなぁ」
糖尿病患者が摂取したら怒られそうな糖度は、続く。
「お昼寝しよ?」
「お風呂掃除」
「おひるね」
「レポート」
「おーひーるーね」
「夕食の買い物行って来なくちゃ」
頭に浮かぶTo Doリストが無慈悲にリトを追い払っていると、説得を諦めたのか押し黙る気配がした。ややあって、
「んがっ!?」
強硬手段に出たと見えて、急に視界が傾いで強制的にお昼寝の体勢に入られた。
「リト」
「おやすみ」
「ここ床」
「うん」
「痛い」
「うん」
「離して」
「じゃあお昼寝してくれる?」
リトの抱き締める力に負けて、「寝るのはベッドでね」と言うと、最初から狙っていたのか、リトははつらつとして布団に潜り込んだ。
わたしもセットなのねそこは。
けれどあっさり眠気は訪れて、気がつけばわたしも眠っていた。
◇◆◇
初めてのキスは付き合ってから一か月。これが平均より遅いか早いかなんて、わたしは知らない。けれどキスからはとんとんで、お互い何も纏わぬまま掛け布団の取り合いをするようになったのはそんなに時間がかからなかった気がする。
触れる指はキモチイ。そこまでは確かに、きもちいのだけど、這う舌になるとてんで駄目だ。快感ならぬ不快感。自分の体を弄られているという実感にぞわぞわぞわと、内蔵が本来の位置より重力に引っ張られている感覚がする。吐き気というより、ドン引きの類いの、気分の悪さだった。
わたしが小さく身を翻すと、リトは密度の高い声で「こらこら」と言った。「ダメ。ズレる」
あ。
その一瞬。
いつも来る時間。
冷めていく一瞬、ああ、この瞬間がないようにといつも願うけれどいつも叶わない。わたしを愛おしいものとして扱う肉の塊に、どうしようもなく冷えていく一瞬。その間になされたたった一回の上睫毛と下睫毛が触れあう行為は、無意識で無意識だからわざわざカウントのためでないことも明白で、それほどの一瞬であることを思い知らされる。決して真剣な気持ちがない交際ではないのに、皮肉だ。遊びじゃないのに、からかっていないけれど、だから、泣きたくなった。ぽわん。
わたしのそれと混じる汗を吹き流しているこの人を、なんの引っかかりもなしに、わたしの汗で汚してしまえたらどんなにいいだろう。そんなことも出来ないわたし。湧くのはキモチヨサより虚しさ。ぽわ、ぽわん。またかと思うとさなかに、次回を思った憂鬱さが湧く。嬌声をあげる。熱くてべとつくリトの背中に手を回す。そうすることが涙の代替のようにして。ぽわん、ぽわん、ぽわん。小さなあぶくのように、湧いて、湧いて、湧いて、止まらなかった。抱かれているほどむしろ世界の深淵に行かなくてはならないみたい。
だからベッドは嫌いだ。ベッドが鳴いた数だけ、その回数に忠実に、世界はばりんと砕けてゆく。
◇◆◇
子供のころ、そう、たとえば初恋をした小学三年生とかそのあたり。大人になったら恋は自ずと愛になると思っていた。変声期を経ていくように、必死に恋をしていたはずが気がついたら愛を知っていました、って。それというのに、わたしは底冷えを知るばかりで、大抵のことをどうにでも出来そうな気持ちとはすれ違ったことさえない。ちゃんと恋だって、したというのに。校舎の廊下で声を殺して泣いたことも、指を絡めるだけで心臓が口から飛び出しそうになったことも、あるのに、ちゃんとわたしは経験しているのに。
ハタチという数字は重い。漢字で書けばたった四画に過ぎないくせに、周りの同い年が「もうハタチか~」というほどに、わたしの中で「やっと」の三文字は激しく点滅した。生きてきた。生きてきたのだ、この年月を。物心つく前からのこのぎっちりした年数は、例えるなら餡子だ。1枚のクラッカーに餡子を載せて、2枚目でサンドすると必ず、むにゅりとはみ出す。どんなに少なく見積もっても、必ず。その密度だ。はみ出しているのだ。20なんて数字、わたしの感覚からはずっとはみ出してる。これだけ生きたのに、20だ。80を越えているであろう人と道ですれ違うと、一生のまだ序盤にすぎないことがぞっとする。
生きてきたつもりで、恋をしてきたつもりで、つもりに過ぎないはずなんかないのに、わたしは泣けないほど泣きたくなる。ランドセルのまだぶかぶかだった頃、親にだって思えそうだったハタチの、大学生。10年以上経っても、わたしは愛も知らない。10年以上なんとか頑張ってきたのに、愛という絶対のヒーローに、助けられていない。こんなに時間を生きたのに知らないんじゃ、知れる気がしない。あのころが、お腹をすかせて泣きじゃくりヒーローを待っているのだったのなら、わたしのお腹は今も空っぽだ。
◇◆◇
「そういや、たい焼きあるよ、今日」
ブラウスのボタンを留めながらわたしは、自分の背中越しに問い返す。
「あそこの?」
「あそこの」
炎天下でたい焼きをふたり頬張った日以来、月に2,3度、リトはたい焼きを買ってくるようになった。大層お気に召したらしい。クーラーでキンキンに冷えた室内で食べるあの店のたい焼きは、快適さは圧倒的に勝るものの、やはり味に違いは感じなかった。もちろん、美味しいのだけど。ほっぺたの落ちるくらい。
「一個オマケだって。なんと中身はカスタード」
「完全に常連になったね」
「まあね。れなちゃんにも顔と名前覚えてもらえてさ、あ、れなちゃんてのはあそこの主人のお孫さんなんだけど」
嫁いだお嫁さんが不妊治療大変だったらしくて、れなちゃん、今2歳なんだけど初孫なんだって。目に入れても本気で痛がらなさそうな溺愛っぷりだよ、ご主人。
そんな込み入ったことまで聞かされているのは彼の人懐こさのなせる技なのか、それにしてもよく喋るご主人にも苦笑が漏れる。
「れなちゃん見てると、女の子もいいって思うんだ」
「なにが」
「子供。もともとは、男の子で一緒にスポーツしたいなって思ってたんだけどね。はなはどっちがいい?」
何を言われているのか、しばらく理解が出来なかった。
女の子って言葉早いんだってね。あれくらい小さいと、会うたびに語彙増えててほんと驚かされるよ、はなに似たら可愛い子だろうな、あンまり俺には似テ欲しくないカモ、デモオレに似たラ運動神経メチャメチャヨカッタりシテネ勉キョウはドウナルカナソコハオレニニテホシクナイヨナハナハドウオモウ…………
この人は。
この人は何を言っているのだろう。
「えっと」
この感覚は、ベッドが鳴くときに似ている気がした。
「子供ね、」
世界が一欠片、ばりんと砕けるみたいな
「そうだなあ」
嬌声でも爪を立てるでもない、代替はどこだ
「どっちもいいんじゃない」
ここだ
代替は、えくぼだ。見つけた。
「そう?」
リトは腑に落ちさそうな様子のまま、手招きをする。
ブラウスの、一番上のボタンを留めて、床を舐めるように見回した。上から二番目のボタンが、千切れてなくなっていたのだ。いつとれちゃったんだろう。寂しく思いながら、既に彼によってお皿の並べられたテーブルにつく。
「あ、カスタード、一個しかないけど半分こする?」
言いながらリトは、オマケでもらったというたい焼きをお腹で半分に割り、右手をわたしに差し出す。尻尾側。
「わたし、餡子の気分だから、いいよ。リト全部食べちゃって」
「え、せっかく半分にしたのに」
リトのそばから袋を引き寄せて、わたしは餡子のぎっちり詰まったたい焼きを手に取った。
「慈悲がないなあ」
頭の方からかぶりつくわたしを横目に、彼はもうお決りのように、楽しげにそう言った。
◇◆◇
もう、焼きたてのたい焼きを外で食べるには、暖の足りない季節になっていた。リトの部屋でPCで作業をしていると、例によって、リトの腕が後ろから腰にまわった。
「どうしたの」
首だけ振り向くや否や、唇に噛みつかれた。「い……ッ」
悲鳴を上げる間もなく、何度も何度も歯が食い込む。キスなんてものじゃなかった。食いちぎられる。とっさにそう思った。噛みついて離さないみたいな、獲物を捕らえた肉食獣みたいな、歯でがっちりと挟まれて、痛みなのか押さえつけたいのか何がなんだか、背中にぞっと意識が集中して、その感覚が「怖い」なのだと悟る。
「……ッたいよリトッ」
呼吸の隙間にねじ込むように叫ぶと、リトは動きを止めた。と、今度は首から、そして服をたくし上げて背中へ、嵐のようにして彼の唇を押しつける。痛みはなく、歯こそたてないものの、こんなのキスでもなんでもなくて、これじゃ、これじゃまるで、
殴るみたいな。
かと思うと今度は、鳥の雛にでも触れるようにわたしの手を取って、指先の細胞全てに唾液を行き渡らせようかという入念さで、ようやくキスを落とし始めた。
何が起きてるの。わたしは固まっていた。なんなの。どうしたの。こんなリト、見たことない。わたしの知ってるリトじゃない。
「ねえはな」
「う、ん」
ようやく、リトと目が合った。たった数分ぶりにちがいないのに、どうしたらいいかわからなくなる。
「俺のこと、好き?」
「……え?」
何を言われたのか、瞬時に理解できなかった。どうしてそんなことを聞くの。どうしてそんなことを聞くのにリトは、あんなになったの。
リトが再び、口を開く。
「好き?」
ええ、好きよ。甘ったるい、餡子顔負けの声でそう言えば、いい。だってわたしは、リトを愛しい人とみなしている。彼を抱きしめることに全く抵抗はないし、彼がわたしを連れて歩くことに何の異論もない。体の関係なだけではないし、彼に貢がせてもいない。そういう不適切、あるいは不適当な関係じゃなく、わたしはリトを恋人だと思っている。優しい恋人。わたしの恋人。だから嘘じゃない。そう答えることは、ちっとも嘘に値しない。なのに、
声が出せなかった。
出なかったのか出せなかったのかはわからない。でもとにかく、わたしは沈黙をつくってしまった。
「はな」
彼がもう一度わたしを呼んだ、その瞬間、終わった、とはっきり、思った。わたしたちは、終えるタイミングを誤ったのだ。わたしたちの恋愛関係は、終わらせられるべき誂えられたみたいな機会を、逃したのだ。すごすごと、たい焼きなんかを頬張りながら、その瞬間に。
「これが倦怠期とか、馴染んで家族同然になったとか、そういうんならそう答えて欲しい。俺、そういうの分からなくて、不安になっちゃうから、教えて」
ああ、彼はまだわたしたちの終わりを知らずにいる。自分のことを好きかなんて、セックスの最中に尋ねてオウム返しをさせればいいのに、軽いウェイトで。
「はな? ごめん、責めてるわけじゃないんだ」
急に声音が優しいものになって、俺が不安になっちゃうせいでさ、と彼は繰り返す。そのときわたしは唐突に知る。彼がケチった「え」の一文字が、わたしの三文字目が一体なにを連れ去っていたのかを。
「リト」
わたしがようやく声を発したことで、同じ高さに下ろされていた顔が安堵を浮かべる。骨格がはっきりしていて、男の顔だ、と思った。わたしに付き合ってくれと言った顔。わたしの背中に何度も何度も埋めた顔。
「リト」
「うん」
ほんの少し、声が震えたせいで、また一段と優しい声になる。大丈夫。言ってみ。そういう顔。
「リト、」
リト。リト。リト。リト。リト。
さよならだった。あなたがわたしを思う気持ちを動詞にしたら、わたしもその言葉を持っていた。同じ音の言葉を。けれどきっと、その中身はあんまりに重ならなかった。知っていた。今までのどの人もそうだったもの。
リトの好きをわたしは彼に持っていなかったのだ。そして多分、リトの好きは恋人同士がお互いに何のすり合わせもなく共有できる好きだ。わたしの好きは、同じ音を携えながら、その五線譜の上で誰とも出会わない。わたしはそれを知っていた。なのにリトからの交際の申し込みを受けたのは、彼の呼ぶ「はな」が――彼の声が置き去りにした最後の一文字が、わたしから離れたところでそのことを抱きしめていたのだ。
「む……じゃ、……い」
「はな?」
むてきじゃ、ない。無敵じゃない。リトを好きなのに、わたしは無敵じゃない。あなたといても、わたしは無敵になれない。だって愛は、無敵にしてくれるはずなのに。
「ごめん」
そう思っていないのは誰よりもわたし自身が知っていて、けれどそのとき彼を突き飛ばすきっかけ作りにはこの上なく最適だった。
「ごめん、リト」
さよなら。そうしてわたしは、彼のもとから消えた。
◇◆◇
花恵のそれは、慎重なんじゃなくて臆病だし、大事にしてるんじゃなくて視界に入れたくないだけだよ。
いつかの恋人にいつか言われたことを思い出す。でも、ちゃんと好きだったんだよ。「わたしなりに」を付けてそう言わないと彼らが納得しないのは自明だった。その添加がなければ一緒にするなと言い、けれど述べないことには弄ぶなと逆上されるから。
顔の思い出せない彼は、何を指してそれと言ったのだったのだろう。
喉の真ん中に飼い殺されたはきっとただの不発弾で、いつぞや言ったのはわたしだっただろうか、線香花火なんてまるで恋みたいじゃないか。
リト。ねえ、リト。たとえばあなたがリトじゃなくてリヒトだったら変わったのかしら。なにか、違ったのかしら。ハナエって呼んで。はなじゃなくて、花恵って、ちゃんと、呼んで。わたしに一字を惜しまないで。わたしごと全部、ひっくるめて呼んで。そう頼んでいたら、変わっただろうか。恋人たちはスペシャリティが好きなのだ。同じゼミの男子が呼ぶスギハラサンよりも、サークルの女の子が呼ぶハナエよりも、ずっと特別で、横で耳にすれば誰しもが二人をそういう関係と見抜けるような、そんな。
スーパーに寄る。自宅と正反対の、行ったこともないスーパー。近所のスーパーよりも安かった。もっと早く、見つけていれば生活費いくら浮いたんだろう、と、ぼんやり考える。
恋人たちはいつだってスペシャリティなのだ。決別エピソードも、砂糖みたいに大活躍で、まるで、肌身離さず、ずっとぎゅって、何年も服の中にしているアクセサリーみたいに。誰もが揃いも揃ってそれらを保持したがることだけには目もくれず、スペシャリティのふりは誰しもにとって本物になる。スペシャリティというおそろい。
久しぶりの自分の部屋でレジ袋を解いた。彼の部屋で半同棲状態になってから、ただの荷物置きになっていた部屋。ここは昨日と今日とでも、何ら変わりはしないのか。
新しい柔軟剤をおろす。まだ残っていた古いものは、全部トイレに流した。振り返ると、重力に忠実なレジ袋から小豆色の塊が既にお目見えしていた。スーパーで一緒に買ってきたものだ。
甘い、な。
口に含むと、そう思った。あそこのたい焼きはこんなに甘かったっけ。そして、ああ、こしあんの方がよかったかもしれない、とも。
破いた封を口にあてがい、天井を仰いだ。ビニールのそのパッケージが指に沿ってへこんだ。へこんだぶんの体積が喉に流れ込んでくる。しばらく動かないでいると、口の中はたちまち餡子でぱんぱんになった。頬がリスみたいに膨らむ。口の中が小豆色で満ちるほど、そしてその色が食道へ胃へ浸食していくほど、頭の中は「あまい」で塗りつぶされていく。甘い。吐きそうなくらい、甘い。胃の中身なんか、重力に逆らって引っ張りあげそうなほど。かつて線香花火と勘違いした、不発弾の住み着く喉はたまに引っかかりを見せながら、けれど確実に、ずっしりした重みを受けて絶えず上下していた。あまい。甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い甘い。
むせ返った。小豆の粒が、気管に入りかけたらしかった。べとべとの唾液が、唇の両端から垂れて服に床に、だらだらと染みを大きくしていく。深呼吸をすると、鼻腔までが甘かった。ちょうどいい、このまま、とわたしは思う。
このままどこもかしこもぱんぱんにして、胃なんかじゃ足らない、鼻腔も肺も腸も血管もリンパ管も心臓も細胞も全部全部餡子で埋め尽くして。そしたら、そうしたらわたしだって「――え」
脈絡もなく、目尻がただれるように濡れた。
水が、体内で、肉体の形をしたまま大きくのびでもしたか、あるいはひゅーと
吸い上がるように、深呼吸みたいに
(このまま )
些細なしょっぱさが潜り込んで口内を犯す。嘲笑いなほど、甘さが引き立つだけだった。頬はぐちゅぐちゅに湿地で、口が舌が食道からお腹のあたりが甘くって、甘くて甘くて、甘くて甘くて甘くて、それに、どうしようもなく、
(ぎょっとするほど、ぱんぱんにして。)
甘くてたまらなかった。
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