今年の、たぶん、春を待つくらいの頃である。

その日わたしは、舞台の稽古に向かうため共演者の車に乗せてもらいながらぼけーっと空を眺めていた。

空に叶うアートなんてあるのかしら、そんな感じの文章を確か川上未映子さんが書いていらした気がする。わたしが神になれるとしたら何よりも先に断定したいのはこのことだ。空に叶うアートは、存在しません。


絵みたいだ。そのときの空を一瞬そう形容しかけて、はて、うん? と思った。

先に景色が風景が、自然が存在していて、絵画の文化が生み出されたまだ最初は専ら写実性に心を傾けたに違いないのに、わたしたちはいつから風景を見て感嘆の言葉として「絵みたいだ」なんて言うようになったんだろうか。そこには何となく、人工優位というか、人間優位なベースが漂うのを否めない。


ちょうどそんなことを考えていた折に、尊敬してやまない人がこんなことを言っていた。

 満天の星を見て「プラネタリウムみたい!」と声を上げる人がいた。プラネタリウムはそもそも自然の星空を再現しようとするものなのに、あとから人工的に作り出したものなのに、なんだかなあ、と。

自分の尊敬する方が自分と同じタイミングで同じようなことを言っているのは心臓がふくふく、やわらかく膨れるような嬉しさがあるのね。にやにや。


同じように昨今は写真なんかでも加工やら技術で実際の風景よりもずっと美しく、幻想的に風景を映し出すタイプのがあるじゃないですか。あれね、わたし、好きじゃないんです。加工は勿論ですが、切り取り方に工夫を凝らした時点であれは風景の写真じゃなくて造形作品だと思うんですよ。絵画なんかと一緒の。

ここで大きな声で断っておきたいのは、わたしはそうしたものを非難したいのではない、ということ。一種のジャンルとしてありと思うのです。だけど、これが自然だ、自然ってなんて美しいんだろうね、とこれがちょっと待ってよ、と引っかかってしまうわけで。

空は美しい。たまらなく、どうしようもなく。

悲愴を漂わせるでもなくたって、その形容できない美しさに泣き出したく、時には泣き喚きたくなることさえある。多分心には容量があって、そういう時の空には、一目で一気にキャパオーバーをさせる感情を溢れさす。そりゃ心が体ん中でビックバン起こしたら泣きたくもなるでしょう。

そうしたところから言うと、空は恐ろしいのだ。もしかしたら、桜の森の満開の下の恐ろしさというのもこんな感じだったのかもしれない。

それときたところで、流行りの写真はやたらメルヘンチックで、ぜんぜん悲しくなったりしないもの、実物の空、あの3Dには何を以ってしても叶わないでしょ。それをまるでこの作品が自然の美しさを示しているというノリで提示してくるから気にくわないんですねわたしは。写真なんて、所詮実物のあるがままのさまを映し出さないくらいでちょうどいいんです。人間の作ったものだもの。神さまのお作りになった(多分)自然に勝てるわけないって。

ほんとなんか、もうね、こういうことを吐かす身分じゃないのに、まあだからブログも限定公開にしているわけなんですけどね。きゃは。



そうそう。何でこんな話をしたかという話だ。

話が違うじゃないかとなってしまいそうだけど、それじゃ自然の美しさを描くのに写真と絵画ならどっちだと言うとわたしは絵だと思っている。もちろん、人にはよるのだろうけど、だってどっちにしろ偽物なのである。同じ偽物なら本物の面してる偽物より偽物をひけらかした偽物の方が個人的には安心して見られるのです。いや、個人的には、ですけどね。

なんてったって絵って色がすてき。絵ってその人の眼つまり頭の中が忠実に出ると思うんですよ。


そう。2016年大ヒット映画のハリウッド実写化の話なのです。わたしがしたかったのは。


眉をひそめられそうだからブログでひっそりやろう、と思ったのです。

アニメ、ええ、わたしアニメは大好きでございます。数は多くないにしても、結構がっつり見ている方と自負しております。

そんな中でこれまで、わたしいくつもの実写化に黙秘を貫いて参りました。つらかった、そりゃあ心臓が千切れるほど不服な作品は数多くありました。観に行かない、と主張することさえせず、必死に無関心無関与を貫きましたとも。ブーイングして話題にのぼらせるのも、どんなものか品定めするような気持ちで観に行くのも、結局思うツボじゃあないですか。絶対に公式に、たとえたった一人ぶんの影響でも与えてはならぬとまあ、そういう思いでいたのであります。


そんな中で、新海誠監督の作品は「君の名は。」に限らず、わたしのまだ短い人生において本当に本当に、大切なものだったんです。ね。

演劇をやっていると、ちょうどそこ、というタイミングがよく存在します。照明の転換や音響の入りや音楽の中のある音、静寂の長さや息をするタイミング、数えたらキリがありません。もちろんもっと身近なことです。アーティストの楽曲の中で、伴奏のふとした一音のタイミングで、歌詞なんか関係なく心を握りつぶされてしまうような。

彼の作品は、とわたしが言うのは本当に偉そうなことだけれど、映画の中でその全てが緻密に完成されているんですよね。息をするタイミング。声音。静寂の長さと、破り方と。音楽と。もう全部。ココ、というところにぴたりと全てを合わせてくるんです。息が止まってしまう。作品の間ずっと。

こういうのって、どれだけ技術を磨いてもカバーできないところがあって、もちろん新海監督は努力家の方と思いますし全て結局才能だろ、と言うつもりはないのですが、それでもやはりこの人は天才なのだと、思うのです。

もちろんそんなこと、わたしが今改めて感じるまでもないことですが。

モノローグは音楽だと、監督の言葉を聞いたときこれだったんだ、と訳のわからない安堵に包まれたものです。今までの上手く言い表せない、けれどずっと何か観るたび作品に求めてやりきれない思いをしていたものがピンポイントで言い表せたきもちになった。


それして、誰もが口を揃えて言う、新海監督の、絵の美しさ。

深夜の対談番組で、たまたま監督の話が聞けたのでぼーっと見ていたら。ああ、このひとはご自分が、そしてわたしが生きているこの世界を美しいものって信じている。そういう気持ちで世界を見つめていらっしゃる。汚れていたり、空っぽだったり、真っ暗だったり、そういう道を歩いてきてみて今、そんな感性で生きている。そういう人が、年齢こそ離れていれど同時代に、生きていることが、どうしようもなく嬉しくて、どうしようもなくほっとして。ああわたしって、こんなことで泣くんだな。そんなことを思いながらわたしはぐびぐひ泣いた。言の葉の庭をみて、雲の向こう、約束の場所をみて、泣いて、泣いて、この人がいる世界ならわたしは生きていようと思えると思った。今も思ってる。


さあ、そこにきて例の知らせである。

正直なところを言うと、原作のストーリーを衒った作品には興味がない。だって新海監督の作品でないもの。

もちろん彼の魅力は絵に限定されず、やはり文章も緻密だし何よりこんなおぼつかない感情を掬い上げて言葉にできるものなんだなあ人って、とすら思わせられた。

だから別に、ストーリー自体は大したことない、と言うのではない。

でもわたしにとっての「君の名は。」は新海監督の感性によって作り上げられたもので、宝物みたいな宝物で、自分で触れるのもおっかないくらいで。ただのミーハーと呼ばれるかもしれないけど、映画館の大きなスクリーンに3度観に行ったそのどの回も、観た日はとても体が上手く使えなかった。


混乱してついこんなのを書いてしまった。こんだけ書いて着地点なしってありかよ。でもまあ、空に叶うアートはないってことで。





何様ふみ様なふみ