今、書かなくちゃいけないこと。

 

 

 こういうことを、登場人物の語り口で書くのはありふれているのに「私」を主語にするとなぜ途端に駄目になるのかわからない。理解されないかもしれないけど、書いておきたい。

 これは、今書き留めておかなくちゃいけない。それは、未来の私、もしかしたら明日の私、あるいは10年後かもしれない、とにかく「今この瞬間をやがて通り過ぎてしまう私」のためである。

 

 生まれながらにして「表現者」である人間がいる。

 と、いうことは私にとって、確信ではなく、もっと大枠の暗黙のルールというか、「空が青い」「日本は島国だ」というような類のことだ。

 運命に定められた表現者。ここでいう運命というのは、「運命に抗ってみせろ」というような周囲に敷かれたレールの話ではなく、その抗った結果歩いている道のことを指す。

 感受性が豊かな人間、といえば一般的な耳障りになるだろうか。喜怒哀楽、痛みや感動を、魂が震えるほどに「まっとうに」感じることができる人間、である。

 誤解を恐れずに言えばそうした人間はマイノリティーであり、大衆のために合理化される社会は、彼らにとって苦しくてたまらない。自分の感性のままにいたら、社会は狭すぎるし早すぎるし雑すぎる。共感できる人に出会うことも難しい。生きることそのものの享受に抵抗や嫌悪を抱え、その緩和のために、あるいはそれ自体が衝動となって表現に走る。音楽。美術。文学。映画。写真。演劇。エンターテイメント。その他、私の把握していない芸術。

 程度の度合いはもちろんあるだろう。それでも、彼らはそれをすることでしか生きていけないのだ。側から見て理解し納得することも困難なほどに、彼らにとってそれは文字通り生きる術、厳密には「死なないでいる」術なのだ。人工呼吸器そのものなのだ。

 そして、私はここで誇りではなく、執念を持って言いたい。

 

 私は、生まれながらにして表現者である。

 

 例えば文章を書く。散文や、詩や、短歌。小説。あるいは、歌を歌う。そこに、明瞭な意識はない。二酸化炭素を吐き出す作業と変わらない。私は、書くことも歌うことも取り上げられたら内側から腐って肉体ごと死んでいく。

 私が書かなければいけない、というのは、読むのを待ってる人がいるからとか、力が落ちちゃうからとか、全然、それはそれはほんとにもう全っ然そんなことではなく、書けるときに書こうということにしておけることでもなく、瞬間瞬間吐き出していなくてはいけないのだ。そうしないと、私の中に延々と湧き上がる文字によって私は多分、物理的に破裂してしまう。指が追い付かないほどこんこんと湧き上がるときもあれば、頭の中がブラックホールのように空っぽで苦しいときもある。あは、どっちをとってもぶっ壊れたコンピューターみたい。後者のとき、私はその闇に埋まった見えない蓋をこじ開けるようにして言葉を紡ぐ。それは、普段の私と違って陳腐で面白味もなく気持ち悪い言葉ばかりだ。その屈辱的な状況に耐えるしか術はない。私が本来吐き出さなければいけない言葉は、その奥底に眠っている。そしてそれを引き出して、再び私の中に流動性を持たせないと、やはり私は腐ってしまうのだ。

 それは、きっと感情量や感情の発生ポイントが膨大であるから。そして、社会に生きる日々のなかに、それは到底収まりきらないから。

 

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 何度か言っているかと思うけれど、基本的に私は命の否定がデフォルトである。否定というと強すぎかな。命に対する肯定感が、私の強く表に出る部分にはほとんどない。

 生きることが素晴らしい。だから生きてありなさい。死ぬなんて絶対駄目。そういう、生存讃歌が、私は吐くほど嫌いだ。憎いとすら思う。なぜなら、私にとっての生とは苦しいものだからだ。逃げたくてなかったことにしたくてシャットダウンしたい、そんなものだからだ。それをどんなに否定されたとしても、少なくとも私の中で無理矢理生存讃歌を唱えることはない。生きることが、楽しい人には楽しい。辛い人には辛い。それでいい。命が尊いなんて、生きていることはそれだけで素晴らしいなんて、そんな考えを押し付けられては虫唾が走る。死にたいって思ったら心の病気のサイン? ふざけんなよな、何かイベント的に苦しみや辛さがあるなんて前提で接して来ないで欲しいね、だったらこの世界というのはそんな病気のウイルスが蔓延している。

 特に珍しいことでもないけど、私は死にたかった。自殺だって何度も試みた。

 今のところ自分で命を絶つつもりはないし今後に断定はできないとはいえ「生きたくない」なんてしょっちゅう思っている。通常運転である。生まれてしまったことの時点で罰のように苦しい。痛みなく消えられるなら消えたい。生まれたことからなかったことにしたい。自分の意思が関与できないで生まれたのに、何の疑問も抵抗もない人たちが気持ち悪い、いっせーのでで人類滅亡しねえかな、とか思う。私が表現を見つけていなければテロとか起こしてそう。

 

 ところで、いつかは社会に折り合いをつけなくてはいけないということを、よく説かれる。私の今の状態を、その人は年齢が理由だと言うのだ。

 歳をとるっていうのは、と、かつて私は書いた。

 歳をとるっていうのは、大人への成長じゃない。子供心の喪失だ。鈍くなっていくんだ。まっとうに感じる感性を、失っていく。けれどそれが大人なのだという、なぜならそうしないと社会に適応できないからで、なぜなら社会はそうやって失った人々によって作られたものだからだ。けれど私は、違う、と強く思う。反骨心が疼く。それは、その人が生まれながらの表現者じゃなかったからだ。

 その人は長いこと音楽をやっている人で、ある程度表現に対して理解があるスタンスで私と話をする。全く表現と関わっていない人よりは話も通じるのだろうけど、根幹の擦り合わせができない。擦り合わせができていないということもまた、伝わらない。「やりたいことをやる」と「やらなければならない」は違う。「やると幸せになる」と「やらなきゃ不幸になる」の間に横たわる深い深い溝を、多分この人は理解していない。相違があることすら。後者は前者を深刻にしたものじゃない。ベクトルが別なのに。

 

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 閑話休題

 生まれながらにして表現者である人間というのは、抑圧的な環境下で過ごしていたり、何らかのスティグマを抱えていたりすることが多い。もちろん、そうでない人もいるのかもしれないけど。人生の途中で、自分がそうであることに気付く人もいるだろう。そうした人も結局「生まれながらにして」なのだ。だって、傷の治りが早い人、そもそも全身がプラスチックで傷のつきようがない人、傷に気付かない人、などなど、素通りできてしまう人はたくさんいるのだ。

 私は、いつまでも鮮やかにぐちゅぐちゅとし続ける傷を、一糸纏わぬ肌の全面で受ける。肌色の見える面積は少なく、吸って吐いての呼吸のごとにそれはさらに減っていく。生きてることが自殺みたいなものだな、と時々思う。

 そして、生まれながらの表現者の多くがきっとそうであるように、非常に抑圧的な環境で私は育った。一個人として尊重されず、価値を与えられず、人と人との感情のやりとりをお金や物で解決するような家庭だった。表立った虐待もネグレクトもなく、なんならいっそまともに衣食住を世話した両親であり、はたから見たら文句の余地もないだろう。もっと下を見ろと言ってくる人もたくさんいた。それがお門違いな助言であることは、少なくとも私にとっては明らかだったけれども。

 それがお門違いであるのと同様に、延々と家庭環境を嘆き被害者の身分に閉じこもることもまたお門違いである、私はそのことを分かっている。過去に悲しかったり、辛かったりしたこと。呪縛として、今も苦しみ続けること。そうしたものがあるのも、嘘じゃない。嘘じゃないし、私にはまっとうに苦しむ権利がある。けれど、人生の全てを両親に責任を取らせようという話でもない。私はそのことを、少なくとも頭で理解できているし、理解できている自分が誇らしくもある。私の人生は、私のものだ。両親や、知った顔をしてアドバイスをしてくる他人のものでもない。

 私が生きていく私の人生のなかで、私は今、まっとうに苦しんでいる。生きることの何が素晴らしいんだよこの野郎黙っとけアホが。そんな気持ちが渦巻く私にも、全てを肯定できる瞬間がある。私を苦しめる私の性質を、心から愛せる瞬間がある。

 それが、感情のすぐそばにいる瞬間だ。

 

 感情のすぐそばにいる瞬間。

 具体的に言うと、物語に触れている瞬間だ。小説や映画や、漫画やアニメ、ドラマ、エトセトラ。人が生きて、人と関わり、そこに生じていく感情。それに、触れている瞬間。

 道徳の教科書みたいに誂えられた優等生な感情でなければないほど、私の全身が受容体となってそれらに響き合うのだ。人間本来の感情が展開していることに、救いを感じるのだ。

 もちろん、フィクションでなくてもいい。ハッとするような景色を見た瞬間、友人が素敵な考えを話してくれたとき。物語の中で描かれている感情が、今度は私自身のものなって響く。もっとも、現実のそうした機会の数より多くを獲得するために、作られた物語に触れるのだけれども。

 そこには、魂を揺さぶるほどのパワーがある。人と深い関係を築くことに似た味わいが、奥底から湧き上がる。そのとき、私のなかで命に価値が生まれる。その瞬間に立ち会えている自分自身に、その瞬間まで辿ってきた道筋であるところの過去に、その瞬間が存在しているこの世界に、愛を持つことができる。生命を嫌悪し恨む私を生かすほどの。

 この感情は、恋だと思う。私は、世界をまっとうに見つめられることに、世界にある美しさを見つけられることに、恋をしている。それをしている物語というものに、恋をしている。そのために味わう濁流のような感情というものに、恋をしている。これは、魂の恋だ。私はこのそばにいるべきだと、確信を持って感じることができる。だってそうしたら、私は命に愛を抱ける。生きていける。

 

 生きていこう。そう決意するときというのは、例えば辻村深月の小説を読んだ直後だったりする。私の思い当たる膨大な量の感情にそっと、ぎゅっと、寄り添ったあと、そのうえできっぱりと世界への肯定感を持つ彼女。ああ、この人がいるなら。こんな風に、感じられる人がいるなら、私はこの世界で生きていけると思うのだ。生きていこうと、読後の言葉にできないような感情をしっかり握りしめて、新たなそれに出会うために生きていこうと強く思うのだ。

 

 この文章を書こうと思ったのも、やっぱり辻村深月を読んだからだ。

 「スロウハイツの神様」を。

 表現者たちの生きる現代版トキワ荘とでもいうべき、虚構のストーリーを。

 そこには程度の差こそあれ、私に似た人たちが息をしていた。ああ、と思った。私は、今の、この私のままでいるしかないんだ。それは諦観というより、安堵だった。誰かに私を肯定されたような安堵。私がこの私でいるためにこの物語がこんなに響き、そしてこの世界には響かせてくれる人が(辻村深月が)いる。

 だから、私は生きていく覚悟を決めた。

 いや、生きていく覚悟を決めることを、決めたと言うのが正しい。この先それが何度揺らぐかなんて、どうでもいい。決めようと思えたことが、私は幸福でならないのだ。そう思わせてくれるものや、人がこの世界にいることが幸福でならないのだ。

 

 こんなことは、もちろん幾度かある。

 新海誠監督のインタビューを偶然見かけた17の夜。ああ、底を生き抜いてきたその上で、こんなに世界を美しいと見ることができる人がいるのか。それならば生きようと思った。彼と彼の作品に生かされようと思った。

 吉本ばななを読んだ夜。何気なく手に取った彼女の著書「ハチ公の最後の恋人」は、私の人生を支える一冊となった。読み返して、泣いて、彼女の言葉を書き留めて、泣いて、自分の感想を書いて、それを読み返して泣いた。また別のあるときは、「白河夜船」を昼過ぎの空いた電車で読んで、1ページ目の1行目から泣いた。

 「リバース・エッヂ」の行定勲監督のインタビューを読んだ夜。そこで語られた、「それでも生きていたい」という二階堂ふみの言葉。「それでも」という逆接を、何度も何度も、噛みしめては泣いた。

 辻村深月を読んだ、いくつもの夜。何週間も引きずった「オーダーメイド殺人クラブ」。初めて読んだ高2のときと、比較にならないくらい一言一句が響いた。もう一生、他の本なんて読めないんじゃないかと思った。獣のように吠えて泣いた。ふと気がつくと、手にとってページを捲りたい自分がいる。

 そんな、素晴らしい物語たちに触れたとき。また、何気ない景色が、心に入り込んで震わせてくるとき。その尊い瞬間たち。苦痛の中では忘れ去るほどに脆く、それでも決して忘れることのない瞬間たち。

 

 私が私として生きていく、ということは、それ即ち「表現者」であり続ける、ということだ。

 表現者であることはつまり、剥き出しの心で感じ入り続ける、ということだ。

 大衆・社会の中で(自分の外で)それは、時に嘲笑われたり、理解されなかったりする。無神経に蹂躙されることだって、しばしばある。

 けれど、私はその蹂躙対象が本来、どれだけ尊いかを知っている。物語に、なんなら、世界の構成要素全てに、感じ入ることを誰にも支配させない。絶対に、誰にも、絶対に。そのために、私は私を守らなくちゃいけない。私は、戦っていかなくちゃいけないのだ。私と、私の中にそびえ立つ尊くてたまらないものを、守り、大切に育むために。(自分を守るとか、そういう話はまた長くなりそうなので別の機会に。)(それをできる自信は、まだないけれど。)

 

 「表現者」の道を、選んで行く。私が私へ書き残しておきたいのは、そういうことだ。

 そう簡単に、生の放棄欲求は変わりはしないだろう。こういう誓いを立てたことを、自らで罵り絶望することもそれはそれは頻繁にあるだろう。絶対ある、今までも何度もある、数えきれないほどある。けれど、魂の恋があるから私は命に留まるのだろう。不本意かもしれないけど。先に「表現者」を自負する際、誇りではなく執念と書いたのは、だからだ。表現者たる性質に、私が苦しんできたことも、これから痛み続けることも、なかったことにしない。そのときの私を置き去りにして光にのみ傾倒していくなんて、ごめんだ。しんどい、苦しい。恋はその裏にある。恨みます、憎みます、それでも感じてみせろコノヤロウ、だから、「執念」。

 そういうことなので私へ、救いには辻村深月を読むといい。吉本ばななを読み、新海誠を観て、野田秀樹を観て、小説を読み映画を観て雨の新宿御苑に行くといい。そして、がむしゃらに詩を書いて、ヘタクソだと喚けばいい。まっとうに美しさを見つめるものに触れて、精一杯浄化されるといい。そして、少し持ち直したら、最高に素敵な詩を書いて自分に浮かれるといい。歌ったり、芝居をしたりすればいい。

 大丈夫。生きていけるよというと私は嫌がるだろうとよく知っているから言わないけど、少なくともあなたは表現の道を歩むことに関しては強固な自信を持っていい。だって、この愛すべき作品たちに感じ入ることの何が幼稚で恥なもんか。響く時点で、私はむちゃくちゃ最高なのである。