私が紆余曲折してようやくたどり着いた、と感動する正解も全体から見たら「そういう人もるよね」の一つに過ぎないんだなあということに気づく。そう思うと、他人の集団で生きるということは(組織ほど細かい集団ではなく、ざっくりと人間社会)なんて難しいんだろう。ましてや、他人同士がお互いによって幸せを獲得していくなんてことは。そういう希少価値だからこそ、素晴らしくて泣けてしまうのかもしれないけど。そういう意味では、ベタだけどやっぱり自分の力になってくれるのは自分しかいないよな。

 

 私は幸福至上主義でも生命至上主義でもないので、死にたいことが全く悪いことと思わない。自分のことを死にぞこないだと思ってる。でも、今生きているという結果が残っている以上私は死ななかったわけで、こう何度も死ねない絶望の夜を数えると「私は自殺できないんだろうな」と分かってくる。感情論じゃない。もうなんか、統計的に。

 それならば、同じ生きてる状態なら、やっぱり楽しいほうが良いかなあと思うのだ。どうせ死ねないなら、生きていなきゃいけないなら、辛いより楽しい方がいい。幸福がそんな簡単なものじゃないことを分かりながら、それでも欲しがっていいじゃないか。そう思う。

 何を幸せとみなすか、そういう「幸せのモト」みたいなものはそこらじゅうに転がっていて、手当たり次第にゴミ拾いをするように、片っ端からセンサーが反応する人はいるのだと思う。そして、自分のセンサーは相当我儘なのだろう、ということも分かっている。だってそんなんだから私は大抵生きたくない。そんな私が、あれはイヤこれはイヤと喚きながら「それでも幸せになりたいの!」と叫ぶことは滑稽かもしれない。惨めかもしれない。哀れまれたり、笑われたりするかもしれない。でも、私が願ったり拒んたりしたものによって被る利益も不利益も、私だけのものだ。惨めになるのもそれでまた死にたくなるのも私自身のみだ。だから、他人に笑う資格なんてないのだ。そう言おう。だって死ぬ選択肢を結果的に捨て続けているチョー頑張ってる私が浮かばれない。

 

 幸せにゴールはないんだと思う。日常が今よりよっぽど素敵な日々になっても、私はきっとまだ駄目で辛くて喚いてはもがく。きっと、そうしているうちに死んでく。幸せになった、と宣言をする前に死んでいく。

 アン・ハッピー状態はたくさんのものを私にもたらすけど、それが何にも展開されないまま死んでいくなんてたまったものじゃない。安直に生きる意味を定義するのはごめんだけど、それにしたって生まれてきた意味なさすぎない? 案件である。ありがちな「不幸こそ賢」を説いたって私は生きなくてはいけないし、生きなくてはいけない以上死ぬまで死ねない。死ねない以上生きてる時間は続いていく。だからいいじゃないか。欲しがって何が悪い。私は私にそう説く。

 

 自分が自分を好きでいられる道を選び取る。ようやく、そこへ手を伸ばすことができる。私をここへ導いた沢山の苦しみや悲しみ、それ自体ではなくそれらを受け止めてきた過去の私自身を慈しみたい。「死なないでくれてありがとう」といつか先の私が言うことがあるならば、今これを書いている瞬間の私は全水分を明け渡して泣く。これは死に損なった夜との決別ではない。スイッチの切り替えみたいに明確な希望でもない。ただ、シンプルに宣言する。誰が何と言おうと、この世の全ての尊さに微塵も劣らず、私は精一杯生きている。