行かないでマーメイド

海辺に立っていた。

まるで、夢の中で、抽象イメージに潜り込んだかのようにさらさらとした砂浜と、エメラルドグリーンが広がっていた。

わたしはそこにすっくと立ち、熱心に口説かれているようだった。

「きみの生きられる場所を、作るから」

作るも何も、とわたしは返した。今、死んでもいないのに、どうやって新しく。その人はわたしの手を柔らかく握り直して言う。

「きみの酸素は、任せて。きちんと、集めてくるから」

わたしはますます訳がわからなかった。酸素なんて、そこらじゅうにあって、何も困ることはないのに。触れ続けている肌は、摂理みたいにしとりと馴染んだ。ふわふわとして、泣きたくなってしまうような。主に嬉しさで。

「きみの喜びに愛を。きみの命に祝福を。きみの決意に安堵を。きみを取り巻くかなしい棘たちから、きみを見えなくするシェルターを」

そのとき初めて、その声がまるで水底で聞いているみたいだな、と気づいたのだった。ぶわりとした膜を一枚、被せたような音で、頼りなさげに震えてくる声。差し出される言葉は、こんなに強いのに。優しさ以外のものを世界から濾したとしたら、きっとここに行き着くのだろうと思う。

愛を。祝福を。声は続けている。手は相変わらず、あたたかいぬくもりに包まれていた。次第に、手から腕へのぼり、心を絡めとるように、ぬくもりに包まれていく。少し、可笑しくなった。こんな風にして、わたしを絡めとって、どうしようというのか。わたしを骨抜きにして、そのくり抜いた魂も、抜け殻も何の使い道もないというのに。可笑しくて、それでいて、泣いてしまいそうだった。まるで、ここにはぬくもりしかないようだった。この場所に全世界のぬくもりは集められていて、一歩足を踏み出せば這いつくばってもぬくもりを見つけ出せないみたいな。

愛を。祝福を。きみに。そして。

セイレーンはこんな声をしていたんじゃないかと、思いながらその声を聞く。わたしを守る、幸福の呪縛のように続く言葉に、何とは無しに耳を傾けていた。

愛を、祝福を。

 

許しを。

救いを。

 

はっと気がついたときにはエメラルドグリーンをした水たちが天まで立ちのぼり、わたしをぐるりと取り囲んでいた。これが最後なのだ、と唐突に確信しながら耳をすます。

「きみが許されることが許されない世界ならば、そんなの世界なんかじゃない」

急に幼びた声音に、わたしは無意識のうちに言葉を発していた。

「あなたは、誰」

あなたは誰。そして、わたしはそれならば、どうしたらいいの。

「覚えていて。きみのためなら何でもする」

わたしを包み込むようにエメラルドグリーンが落ちてくる。肌に触れる、と思うより先に、まっしろになった。

 

 

 

「……っ」

がばり、と強く起き上がる。まるで大量の水の塊に押し潰されたみたいに、体が重くて、痛んだ。

朦朧とした意識で枕元にスマホを探す。手のひらでつるりと硬い端末を探し当てて、画面を見ると日付と曜日が事務的に記されていた。

日曜日。

またか、と思う。

生涯の大恋愛を終えたみたいに心が満ち溢れていて、あたたかくて眠たげで、心臓が裂けそうな心地。

朝、特別急いで起きる必要のない日曜日、わたしは度々、こうした気分に襲われていた。なんだかとても甘くて、優しくて、

死にたくなるほど、切ない。

夢を見ていたのだと思う。何か、決して忘れちゃいけない大切なものに、ぴたりと触れていたように思う。それなのに、それが何か、本当にあるのかもわからない。ロマンチストぶるわたしの子供じみた精神が生み出す、願望なのかもしれない。でも。

確かにわかるのは、目覚めてはいけなかったということ。夢を見ていたのだとしたら、目が覚めた今の、この世界にいることが間違いで、こんなにも胸を甘くズタズタに引き裂くあの夢の中に、わたしはいるべきだということ。

心臓が膨れ上がって、内側からわたしを責め立てている。喉元を強く押さえてみたけれど、嗚咽はやってこないようだった。無駄かもしれない。

覚醒しきった頭をのろのろと動かすと、部屋の景色が自ずと目に入った。……うん。確かに今は、昨日の延長線上にブレることなく位置しているようだ。寝る前、適当に場所を探して置いた封筒が変わらぬ位置にあることが証拠だった。ゆるゆると天井を仰ぐ。心臓が泣き出していた。現実世界はこっちで、戻ってきたという言葉を使うなら少なくともこっちで、それなのに、わたしは迷子のような気持ちでいる。むしろこの世界に、投げ出されたような心細さに塗り潰される。あの甘やかで力強い、わたしの欲している何かは、どこで触れられるのだろう。その正体がわからないのに、そもそも実在しない何かではないかという気持ちが、強く頭をもたげる。ビターチョコ。レモン、カボス。胸の奥にくすぐったさを残すものを想像してみるが、そんなものとは訳が違った。忘れている記憶をぎゅっと捻られるみたいな、痛くて泣けなくて、泣けなくて泣けなくて気道がひゅっと狭まった。

……わかっている、と呟く。何が。何も。それでも。金曜日のお昼、やりたいことを列挙したことは覚えている。それでもきっと、こんなスタートを切った日曜はきっと、わたがしよりも残酷に一瞬で溶けていく。何一つ、進むことがないまま、無心で体を動かす必要に、きっと迫られていく。明日も、来週も、来月も来年も。

ふと、そわそわそわ、と、内側から心を撫でられる心地がした。溺れたときみたいに、鼻の奥がツンと苦しくなる。わたしは唐突に何かに対して、助けて、と強く思う。

 

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