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百人一首アンソロジー さくやこのはな(http://sakuyakonohana.nomaki.jp/) 参加作品

〇六四 朝ぼらけ 宇治の川霧 絶え絶えに あらはれわたる 瀬々の網代木 

 

◇◆◇

 

ワカバが死んだ。
お行儀よく、脱いだ靴を綺麗に揃えて、橋から飛び降りて。

 

 

「天の川の織姫と彦星は有名だけど、知ってる? 霧の向こうの世界のこと。」
ワカバが突然俺にそう言ってきたのは、ワカバを家に連れて帰る道中だった。寒いねー、と首をすくめていたのと、空のオレンジが最大濃度だったから、確か秋も終わりが近づいていた頃くらいだったはずだ。
「霧? の向こうの世界? そんなのあんの?」
「そうだよー! 知らなかったでしょ! あるんだよ~」
俺が知らなかったのが嬉しかったのか、ワカバは楽しそうに答えた。内緒話をするように、こしょこしょと続ける。
「あのね、冷えた、湿っぽい朝、霧が出るでしょう。そしたらね、橋に行くの」
「橋?」
「そう。見晴らしの丘がある公園を、抜けてちょっと行くと、寂れた感じの橋あるでしょ」
「あの赤いやつ?」
「うん! あそこがね、繋がってるの」
「霧の向こうの世界ってとこに?」
「そうだよ! 他の人には言っちゃダメだからね!」

そんなものが本当にあるとは思えなかった。けど、あまりにワカバが楽しそうで水を差すのは憚られたし、何よりこのテの話には慣れている。

なにせワカバは、小学生のときは「こびとがいる!」と言って散々騒がせたあげく嘘つき呼ばわりされたような子だ。「水を飲んでも飲んでも喉が渇く、だからワカバ人魚の末裔かもしれない。海に還りたい」と大真面目に言い出すこともあった。いずれも当の本人は至って真剣で、だから実は俺は、ワカバには本当にそんなものが見えているのかもしれない、そういう世界があるのかもしれないと、内心結構本気で思っているところがある。

「それ、天の川とどう関係あんの?」
俺がそう聞くと、ワカバはその顔をいっそう輝かせて、「さっすが、ケイちゃん、いい質問だね!」と鼻眼鏡を上げる仕草。
「ちゃんて呼ぶのやめろ」
「え~、いいじゃんケイちゃん。なんでダメなの?」
このやりとりももう数えきれないほどしているが、効果は見られないので最早あくまでも体裁のために言っている節がある。。
「でね、天の川ね! そうそう、その話! 聞きたい? 聞きたい?」
「聞きたくないって言っても言うんだろ」
「ご名答! ケイちゃん、ワカバのことよく分かってるぅ」
俺とワカバは幼馴染で、母親同士が高校時代の唯一無二の親友だったらしい。物心つく前からの付き合いだから、そりゃもう17年以上の付き合いになる。もっとも、今のは付き合いの長さ故じゃなくてワカバの単純さ故だ。
「てかそもそも、霧の向こうの世界? がよく分かんないんだけど」
「おぉー! 学ぶ意欲があってよろしいね! じゃあそこから説明するね」
ワカバの説明によると、こうらしい。
霧が出ると遠くまで見通せなくなるのは、そこに別の世界が存在して、壁になるからだと言う。
普段は同じ空間には存在していないその世界(ワカバの言うところの霧の向こうの世界だ、)は、霧が出るという条件下では限りなく距離が近づいて、ほぼ同じ次元に存在することになるそうだ。
ただし直接繋がるのはある一点でのみで、それがさっきワカバの言った、市の外れにある赤い橋だというわけだ。
「それでね……ふふっ」
「なんだよ。もったいぶるようなことでもあんの」
「恋しちゃったの!」
「へぇ。……っは!?」
発言のワードに引っ張られて結構なリアクションをとってしまったが、いや、待て。今の流れで誰に恋したことになるんだ。それをわかれというのは、いや、俺の頭が足りないだけなのだろうか。
「霧の向こうの人に」
「会ったのか?!」
「うん。お喋りしたよ」

「ちょっ、待て……頭の整理させろ」

「どうぞー」

ワカバはにへらにへらと笑った。デレてんのか、こいつ。ちょっと腹立たしいまでの笑顔だ。

「てかお前、あそこって結構距離あるじゃん。そもそも何しに行ったの」

「最近入れたアプリのゲームが、歩いて歩数稼がないと進まなくて」

「ゲームかよ」

「毎日ゲームばっかしてるよ、羨ましいでしょー」
どや顔のワカバ。だがしかし、
「あそこ市のはずれじゃん。危ないから、今度からは俺と一緒に行こう」
「え、やだ」
「?!」
即答で断られた。
「なんでだよ」
「だって、ケイちゃんと一緒だとカン違いされちゃうかもしれないじゃん。ワカバ、アプローチしたいのに」
ぐうの音も出ない。というか、実話前提で話が進んでいる。完全にワカバのペースだ。
「てかそれって人なの?」
「どういうこと?」
「別世界の生き物ってこう、宇宙人じゃないけど、うにょうにょしてるイメージっつうか。人型なの?」
「ふつーに人間みたいなだったよ!」
「それ、普通に人間なんじゃなくて?」
「違うよ! ひどいなぁー、ちゃんと見たの!霧の中に、ぐわーぁって、お城みたいなのがあったの」
「シンデレラ城みたいな?」
「ううん、そうじゃなくて、もっと、日本ぽいっていうか中国っぽいっていうか」
「へぇ」
「それがさ、霧の中にぶわーって浮かんで見えるの。すごいの。ほんもの」
「はぁ」
「あーっ! もう、ケイちゃん、信じてないな? こうね、なんて言ったら上手く伝わるのかな……水晶の中を覗き込んだときのさ、輪郭が途中でぼやけてるけど一部見えてる感じだよ!!」
「いや、水晶覗き込んだことねぇし。覗き込んでもなんも見えねーし。余計わかりにくくなったし」
話が少しずつ具体的になっていくので、ますます本当なのかもしれないと思い始める。そもそも、ワカバは嘘をつくのがどうしようもなく下手なのだ。
「そいつ、触ったりできるわけ」
「うーん、あのね、あの橋が繋がってる一点だって、話したでしょ」
「うん」
「向こうもね、頑張ったら近づいて来られるんだけど、限度があるの。だから、精精欄干を挟んで話すことはできるけど、欄干は越えて来られないの。だから触ったことはないけど、バーチャルな感じでもないんだよ」
「ほう」
「でもね……ケイちゃん。悲しいの」

「もう玉砕した?」

テキトーに言ってみるも、ワカバは怪訝そうな顔をした。
「何言ってるのケイちゃん。そんなわけないじゃんケイちゃん。何考えてるのケイちゃん」
「ケイちゃんケイちゃん言い過ぎだわボケ」
「ボケ?! ワカバのことボケって言った?! かーっ、むかつくなぁ、ボケって言う方がボケなんだからね!」
「なんだその小学生みたいな理屈は」
「だからね、悲しいの。霧の出てる間しか会えないから。ほんの一瞬なの」
「……」
好きな人がいて、その人に会えるかどうかは天候が握っていて、やっと会えたと思っても少しの間で見えなくなってしまう。それは、想像するだけでも大層つらいことのように思われた。霧が出る時間帯というのは、大抵ワカバはおねむなはずだし、何の拍子に知ったか知らないが、そのために眠い目を擦り頑張って足を運んでいるのだろうと思うと、何かちょっと、力になってやりたい気がした。
「さみしいときは、惚気るといいんだよ」
「のろける?」
「そいつと何話した、とか、どんなことしてくれた、とか、話してると、嬉しかったり、どきどきしたりする気持ちが実感できるから、ちょっとはさみしさも和らぐ」
「へぇー! すごいね! ケイちゃんそういう本読んでるの?」
「本じゃねぇ、経験則だ」
「もっとビックリだよ!」
こっちが親身にと思って言ったのに、却ってイジられたのが少しむっとした。が、そうだ。こいつはこういう奴だった。
「えー、じゃあケイちゃんが聞いてよ」
「どーぞどーぞ」
「いいの!? やっさしい~さすがケイちゃん!神様ケイちゃん!」
「もう連呼しても突っ込まないぞ」
「えーーー」
ケタケタとひとしきり笑って、また声をすぼめて、ワカバは言う。
「でも、ほんとに内緒だからね。シンにも、言っちゃだめだよ」
シンというのは、ワカバの弟だ。俺やワカバとは三つ離れてるが、2年ほど前に姉の身長を抜いた。なかなかの男前である。
「はいはい。シン、元気?」
「んん、めちゃくちゃ忙しいみたいだよ。家でもあんまり会わない」
「高校受験なぁ。推薦だろ?」
「うん。だから勉強で忙しいっていうか、ずっとずっとバスケしてるみたい。あとは走ったり、トレーニングしたり」
「大変だな……」
「シン、頑張ってるよ。だって第一志望のところ、全国常連なんでしょ? 受かって欲しいなぁ」
「そうだな、ほんとに」
そう話しているうちに、ワカバの家の前に着いた。
「じゃあ、またねっ! ケイちゃん」
「あ、ワカバ」
「ん?」
名残もなくさっさと家に入ろうとするワカバを、呼び止める。呼び止めたはいいが、なんと言えばいいかわからない。
「……悪かったな、なかなか会いに来られなくて」
するとワカバはぽかんとして、
「えー、なになに、どうしたのケイちゃん、やけに素直だね」
「さみしかった?」
「うん! 今日久々に会えて良かった!」
ワカバは四六時中素直だから、あっけらかんとそんな風に言う。
「でも忙しいんでしょ、ケイちゃんも。来年にはもう就職だもんね」
「まぁな。でも、時間作ってまた来るから」
「もー、どうしちゃったのケイちゃん、慣れないことでもして雨降らせようって魂胆?」
「お前な、人がせっかく珍しく素直になっているところを……そんなに雨にして欲しけりゃいくらでも降らせてやるぞ……?」
「きゃーっ、やめてやめて! 雨の日は頭痛くなるんだもん! 雨反対! ケイちゃん慣れないことしないで!」
「お前という奴は……」
ワカバはきゃっきゃと、楽しくてたまらないように笑うと、じゃあと玄関の扉に手をかけた。じゃあこれ、お母さんに渡しといて、と俺が持っていた袋を預ける。
「ん。ありがと。またね、ケイちゃん」
「おう」
玄関の扉を閉めかけたところで、その隙間からワカバがひょこっと顔を出し、「あとさ」と言う。
雨降らせるくらいなら、霧にしてよ。
そう囁いたときのワカバの表情ったら、妙に女っぽくて俺は思わず2、3歩後ずさりした。言い終えるや否や扉を閉めたワカバには、その格好悪い姿は見られずに済んだのがまだ救いだ。
ただ、随分と久しぶりに会った幼馴染が、思っていたよりずっと元気そうで、安心する。胃も痛まずに、自分の家へ帰ることができた。


その夜、風呂から上がって自室に戻ると、スマホに不在着信が残っていた。ワカバの母親からだ。
「やっべ」

首から下げていたバスタオルで申し訳程度に髪の毛の水分を拭くと、急いでその名前をタップした。

「もしもし」

2コールで返答があった。

「もしもし」

「うん、ケイちゃん。忙しくなかった? ごめんね電話かけちゃって」

「いや、もともと俺の方からかけようと思ってたから」
「あらそーお。じゃ、良かったわ。それで、今日はありがとね。病院になんか付き合わせちゃって」

「全然。ちょうど今日、あいてたし」

「今朝急に仕事入れられちゃってねぇ……前々からこの日は無理だって、言っておいたのに」

おばさんは不運な一日だったようだ。疲労がにじみでている。さっさと話を済ませようと、俺は今日の報告をする。

「薬、減らすって、医者が」

「あ、そうなの、ワカバから袋預かったの、まだ見てなかった」

「先生、俺に伝言じゃ大変だからって、手紙も書いてくれてた」

「手紙? 経過報告みたいな話かしら」

「多分、そう」

「今朝ね、仕事入っちゃったから診察また別の日にしてもらおっかって言ったらワカバ、自分で『ケイちゃんと一緒に行く』って言い出したのよ」

なんと。それは知らなかった。今朝いきなり「ワカバと病院に行ってきてくれないか」と言われたときは、久しぶりに会えるのかという喜びが半分と、もう半分に胃をきりきり痛めつけられたものだったけど。ここ一年でほとんど人とも会わなくなったワカバだから、人選漏れしなかったのは、嬉しい。

「でもワカバ、外、出られるようになったんだね」

「そうなの。ゲームクリアしたいとか言って」

「思ってたよりずっと元気そうだった」

「ここ2,3ヶ月はね。たまにそうやって外出たり、楽しそうに喋ったりするの。ご飯も食べてる」

その後、シンが反抗期だという話でひとしきり盛り上がり、シンの夜食を作ると言って電話は切れた。

 

病院とは、心療内科だった。通い始めたのは、去年から。

一年ほど前、ワカバは、当時付き合っていた人を自殺で亡くしている。理由は、不明。そのときすっ飛んでいった俺が目にしたワカバは、まるで人形だった。人形より、人形じみていた。呼びかけても反応はないし、目は虚ろ。俺の知らない人みたいだった。人間が、全身の筋肉に力を入れることを放棄したらこうなるのか、ワカバを見て、そんなことさえ思った。そしてワカバは、高校をやめた。

以来、ワカバの家には近づいていなかった。壊れたままのワカバを見るのが怖くて、薄情だという気持ちはあったけど、「来てもいいけど、まだ何も反応しないのよ」というワカバのお母さんの言葉に甘えていた。連絡をすることもできなかった。

母親を通じてちょこちょこ様子は聞いていて、通院するようになって2ヶ月、ようやくその感情を口にしたらしい。「ワカバのせいかもしれない。ワカバが助けてあげられたかもしれない。」そう、自分を責める言葉を延々と。

最近じゃ少しずつ元気も取り戻したりしているとは聞いていたけど、それにしても予想を遥かに上回った。帰りなんか、油分と塩分だらけのこってこてのジャンクフードを平らげ、前までと同じように喋れたもんな。やっぱり顔を見られたのは、いい。すごく、安心した。

 

◇◆◇

 

それからは、ちょこちょことワカバからも連絡が来た。

約束はちゃっかりしていて、大抵延々と惚気だったりするのだが、まるで元に戻ったようで嬉しかった。

「名前をね、素敵な名前だって、言われた」

「次の霧が待ち遠しかったって! もしかして:脈あり?! ←キャー(●´艸`)」

「ねぇ、ケイちゃん、最近霧出ないんだけどなんか慣れないことはじめた?」

……俺が気象をコントロールできると思っているところだけは、訂正しておこう。

 

その年の年末は、久しぶりに、ワカバの家で、みんなで過ごした。おそらく、俺とワカバが小学生だったとき以来じゃないだろうか。

俺とシンは、地味に花札にドハマりして、あと一回、次俺が勝つまで、と回数を重ねていたら、紅白も年が明ける瞬間も終わっていたという体たらくだった。ワカバは、横でみかんを食べながら、「今なんでそうなったの?!」「まって! もっかいルール説明して!」とずっと騒いでいた。

のどかな年明けだった。このまま一年が、ずっとこんな風に、のどかだったらいい。ちょっとそんなことを思った。

 

冬の霧は、格別らしい。何がどう格別かよく分からないけど、ワカバがそう聞いたと報告してくるのだから、そうなんだろう。

冬の朝は、寒くって、あの人を待つのは全身かじかむけど、会えたらとびきり嬉しいのとワカバは言う。

俺も年を越さないうちになんとか、就職が決まり、シンは入試を間近に控え、頑張っていた。本人曰く、「手は抜かなきゃ、合格はそんなに危険じゃなさげ」らしい。

 

ワカバの惚気報告は相変わらず続いていて、次第に脈あり度は上昇を思わせた。

「ねぇ、もし、もしだけど、告白とかして、もしOKもらったとして、付き合うって何するんだろうね??」

「確かに」

「うーん」

「告るつもりなの?」

「それはナイショ♡!!」

そんなやりとりをして、寝た日のことだったか。

次の日の朝は、やたらと目が早く覚めた。そんなに早く寝たわけでもないのに、完全にすっきりと目が覚めてしまって、二度寝も叶わなさそうだったので、仕方なくベッドから這い出る。

スマホの画面を見ると、まだ五時前だった。畜生。もっと寝たかった。

何気なくカーテンを開けると、窓いっぱいが、

「うっわぁすごい霧」

もうもうと立ち籠めていて、水の集まりというよりももはやでかい一つの塊に見えた。

「あ、ワカバ、喜ぶなぁこりゃ」

ふと、ワカバとのトーク画面を開くと、既読がついていなかった。起きていればすぐ見るだろうから、もしかしてまだ寝ているのかも知れない。そうだとしたらあまりにも勿体なくて、俺はワカバの電話番号をタップした。起きてればその旨を伝えればいいし、寝ていれば万々歳、恩人だーって喚いて、慌てて支度をするに違いない。

コール音は鳴り続けていたが、出る様子はなかった。マナーモードのまま寝でもしたか。

まあいいかと、ベッドにダイブして、手持ち無沙汰にスマホを弄った。

 

◇◆◇

 

電話の着信音で目が覚めた。やっぱり、変な時間に起きたせいでまた眠っていたらしい。

寝ぼけ眼で、ろくに発信者の名も見ずに電話に出る。

「もしも」

「ケイちゃん!」

ワカバのお母さんの声だった。え、どうしたの? そんなに慌てて俺に電話をかけてくる用事は、今日はなかったはずだ。

その声が、告げた。

「ワカバが、死んだ」

 

 

 

 

ワカバの家は、真っ黒だった。

そこにいる人の服装も、家の中の色彩も、真っ黒だった。

「やっぱり……後を追ったのかしらね」

「元カレでしょ? いつだったっけ自殺したの」

小さくそんあ会話さえ飛び交う。

俺は、ワカバの家の前で踵を返した。

ワカバは死んでない。ワカバは、会いに行ったのだ、かの君に。それだけだ。死にに行ったわけじゃない。

 

橋の真ん中に、靴を綺麗にそろえて、そこから、飛び降りたって。
それを話すワカバのお母さんの声は動転していた。
違うよ、おばさん。ワカバは好きな人に会いに行っただけだ。他所の家にお邪魔するときみたいに、靴を脱いでそろえたのが何よりの証拠じゃないか。

ワカバはひょっこり、帰ってくる。俺に、告白上手くいったって、報告したくてたまらないはずだ。ワカバが幸せを、ひとりで噛みしめるに留められる訳がない。

ワカバを迎えに行こうと思った。ひょっこり帰ってきても、今ひとりじゃ帰りにくいかもしれない。

スマホを見ると、もう夜中も三時を過ぎている。行こう。

 

遠くから視界に入ったことしかなかった、橋に向かう。冬の三時なんて、真っ暗だ。ここが、世界で一番暗い場所だと思った。

コートの隙間からこの世のものとは思えない温度の風が吹き込んで、防寒を謳った布の下で皮膚が縮こまる。

寒いのに耐えて待てば、会えたときもっと嬉しいと、ワカバは言っていた。何時でもいい。帰ってくるのは、何時でもいい。それまで待てる余裕が俺にはある。俺は早計に後を追っただなんて言わないし、ワカバの魂に安らかに眠れと祈ったりもしない。

頬に、霧が覆い被さるようだった。肌に触れて温まった水蒸気が、水滴になって口元を濡らした。ワカバはいつも、こんな思いをして通っていたのかと思うと、いっそう成就の報告に待ち焦がれる。

やがてあの赤が見えてきた。人影は、なかった。けれど近づくと、何かあるのが分かった。靴だ。ワカバの、靴。触れてみるとすっかり冷たくて、ワカバが綺麗にそろえたときの、そのままだろう。俺はその隣に座って、身を縮めて、じっとしていた。

どれくらい、時間が経ったのだろう。じっと、ただじっと、むわっとたちのぼる霧を見つめていた。2時間は、経ったのだろうか。

じゃり、と足音がして、勢いがついて振り返ると寒さで冷えた体は言うことを聞きにくくごろんと転げた。シンが、そこに立っていた。

「ケイちゃんもいたんだ」

「ん」

「……これ」

シンがホッカイロを手渡してくれる。ありがたくその暖にかじり付いた。
「ケイちゃん」

「ワカバは、死んでねえよ」

「ケイちゃん」

「だってワカバは、会いに来ただけだ」

「会うって、誰に」

俺はワカバの、内緒にするって約束した、霧の向こうの話をした。そこに恋い焦がれてる人がいるってことも。
シンは、黙ってドサッと、袋を俺の目の前に置いた。

「なに、これ」

「薬。ねーちゃんの」

中を覗くと、俺が以前預かった量の、ゆうに10倍はある。どういうことだ。薬を減らすと言っていた、それは良くなっているってことじゃなかったのか。てっきり順調に薬も飲んでいるものと思っていた。

「治す気なかったんじゃねーの。最初から、後追うつもりだったんだよきっと」
「ちが……」

う、と断言できるほどの自信はなかった。けど、じゃあ、何だって言うんだ。一緒に、喋って、過ごして、笑ってたのも、その瞬間もワカバは死にたいほど追い詰められてたって言うのか。目の前で、堂々と騙して。
「ケイちゃん」
シンが言う。
「霧の向こうの世界って、本気でそう思ってるの」
「ワカバが嘘つきっていうのかよ」

「ねーちゃんが嘘ついたって言ってないよ。ねーちゃんは見た、見たけどそれは、ねーちゃんの逃げたい気持ちが作り出したまぼろしなんじゃないのって言ってんの」

「なんだよその最初から苦痛しかない設定は。お前は俺づてに聞いたから馬鹿みたいな話に思えるだろうけど、ワカバが言うと本当にそんな気がしてくるんだよ、しょうがないだろ」

「わかるよ。それは。俺だって経験あるから」

半ば逆ギレのように食いつくと、シンはあっさりと頷いて、俺は拍子抜けした。

サー。スー。

下を下る水が、その音を意図もせずに佇ませて、置いていく。

意識してこの橋に来たことはなかったから、川面が、こんなに橋から離れているとは知らなかった。

「ねぇ、面白い話しようか」

「なんだよ」

「ねーちゃんの命日、大寒だったってよ」

「面白い話か?」

「一年でいっちばん寒い日だぜ。そんな日に冷たーい川に身投げするってよっぽどマゾヒストだよねねーちゃん。興奮しない?」

「しねーだろ普通。ひくわ」

何も口を利きたくなくて、けれどふざけていないとどうにかなりそうだった。会話で利く言葉の蓄積で、ある一定の文字数をオーバーしたら嘘もほんとも悪夢になる、なんだかそんな気がした。

「正直、なんだかんだあってもゆくゆくはねーちゃんとケイちゃんって結婚すると思ってた」
「まじか」
「まじまじ」
「考えたことなかったな」
「うそ」
「いやほんとに」
「え、なんで? ちょっとくらいよぎったりするもんじゃないの? そんなにねーちゃん不細工?」
「おっとシスコンか?」
「ちげーよ。俺と血が繋がってるんだから目も当てられないほどのブスじゃないって話」
「シスコンとナルシってどっちがタチ悪いと思う?」
「去年のバレンタインのチョコの数せーので言う?」
「ごめん許して」

ワカバ。見てるか? お前の幼馴染みと弟は、お前が消えてった場所でこんなしょうもない話してるんだけど、お前、ほんとに俺たち置いて死にたかっただけなのか? 好きな人はどうした。告白するんじゃなかったのか。全部嘘か。それとも結ばれた? 幸せになった? そっちで元気にやってる?

「こんな風に、話してたのかな。ねーちゃんとかの君も」

「せめて頭お花畑の会話しててくれる方がまだマシだ」

こんな下世話な話で盛り上がられては困る。ワカバを託すには、心許ない相手だ。

結婚。結婚かぁ。

俺はワカバを、どう思っていたのだろう。付き合いたいとは、考えたこともなかった。恋人関係はわざわざ契るもので、異物だと、思う。だけどワカバは、ワカバは異物ではなく前提だった。

じゃあ、ワカバは。ワカバは俺のことを、どう思っていたんだろう。置いていける程度の存在だったってことか。それともないしょ話を信じてくれる、実は貴重な人材だったりしなかったのだろうか。

「俺がその人だったら追わないくせに」
「そりゃ追わないよ。ケイちゃんとは、生きてて一緒にいたいでしょ。ねーちゃんだって」

 

東の空が、明るみ始めている。夜が、明けようとしていた。

空に、あたりに、ほのかな明るさがフェードインしてくるのを見て、ワカバはいつもこの光景を見ていたのだろうかと思う。

霧が、ところどころ透き通っていく。あ。ああ、あ、ああ。消えていく。霧が、晴れていく。

 

ワカバは、死んだのだ。

 

霧の向こうの世界がフィクションでもノンフィクションでも、そのことに変わりはないのだと気付く。少なくとも俺と同じ世界から、ワカバは消えた。あの世であれどの世であれ、もう会えないんだと。

「だっせぇ、ケイちゃん、泣いてやんの」

鼻をすするシンの声がした。

霧に覆われて、見えなくなっていた“向こう“が現れてくる。東の空は明るい。隣には、シンが立っている。

なんてことない、一日が始まるのだと思った。俺たちは生きなくちゃいけない。そんなふうに、思う。

「なぁ、シン。これ、投げちゃおうか」

足下に変わらず佇んでいる、ワカバの靴を一足手にして、言った。遺品なんて知るか。

「いいね、ケイちゃん」

俺とシンは大きく振りかぶって、ワカバの忘れ物を、もう届きようのない、霧もない向こうに向かって投げる。

俺たちは、生きなくちゃいけない。