天使の正しいラブソング

 

「生きてても別にいいことねーよ、って言われたほうがまだ信用できない?」
 チーコがそんなことを言ったとき、わたしはちょうどうまい棒のコンポタ味を口に突っ込んだところだった。これは即答を求められているやつだぞ、と思いながら必死に口に入れてしまったぶんを咀嚼していると、案の定チーコが不機嫌そうに振り向いた。今にも文句を言い出したそうに尖った唇が、やがて口の周りをうまい棒のカケラでいっぱいにしたわたしを見るや否や吹き出した。
「ちょっと、笑わないでよ」
 わたしも思わずムッとした声が出る。あんたもタイミングを見計らいなさいよ。せめて小一時間目の前でわたしがコンポタ味にするかめんたい味にするか、ここはあえて自罰で悦に入るためなっとう味にするかウンウン唸ってたときに言いなさいよ(ちなみにチーコはなっとうを勧めてきた。彼女の口には合うらしい。彼女の味覚は信用しないことにしている。前、ドリンクバーで彼女が絶賛する組み合わせを混ぜたら吐き出したくなった。そんなことはしちゃいけないと躾けられた自分の体が恨めしかった)。
「で、なんだって?」
 わたしは雑にへこみかけたペットボトルを開け水を飲んで、数回軽く咳き込んでから尋ねた。チーコの興味はもう別に移っているかもしれなかったけれど、なんとなく聞き返さなくちゃいけない気がした。
「あたしはさあ、ほら、ハクアイシュギシャ? ってやつだからさあ。まあ、どんなやつでも? 認めてあげるっていうかさあ。許してあげるんだけど」
 それはそれとして好き嫌いってあるじゃなあい? それって両立するよね?
 彼女は空を睨みながらそう続けた。足先ではポンポンとサッカーボールを弄んでいる。器用なことだ。リフティング、何回続くか数えてやろうか。五十まで行けたら教えてやろう、と思った瞬間にチーコはそれを高く蹴り上げて遠くへやってしまった。ちぇっ。
「すると思うよ」
 わたしは答えた。口の周りがまだむず痒くて、払うと黄色の粉がぽろぽろとこぼれた。まだついていたらしい。口の周りにスナックの食べかすをつけてハクアイシュギを語るなんて、格好がつかない。
 ほんとうはもっと言いたいことがあったけれど、それはなんとなく喉で堰き止められていた。手がベタついていたからではない。何かを言葉にしすぎることは幼稚なことだと心得ていたからだ。わたしとチーコは一番の友だちだったけれど、だからと言って愚かさを見せ合ったりはしない。そのときのわたしは既に、一丁前にプライドというものが育っていて、自分の見え方にとても鋭く敏感だった。
「ハル」
「なに」
「ボールとってきてよ」
「いやだよ。チーコが飛ばしたんでしょ」
「ちぇっ。ハルのケチ」
「ケチじゃないもん」
「うるさーい。ハルのサボリ魔ー。ボール取りに行くのすらめんどくさがってるようじゃ太るよ。ぷよぷよ。ぷよハル、やーい!」
「そんなこと言うなら太るのはチーコのほうでしょ⁈」
「あたし? あたしは太りませーん」
「なんで⁈」
「あたしは天才だから」
 いつも通りの会話の応酬に疲れて、わたしはため息をついた。
「意味わかんない」
 いつもこうやって、わたしの方が呆れて終わる。チーコは本当にムカつくけど、それでも案外、この時間をわたしは嫌いではない。わたしの方が折れるたび、まだ子どもなチーコがほんの少しだけかわいく思えたりした。
「コンポタ味なんか食べるからだよ。だからなっとう味にしとけって言ったのにー」
「関係なくない⁈」
 まあ、やっぱり、ムカつくけど。

「……そんなこともあったんだよ。覚えてる?」
チーコの横顔に、そう話しかける。たくさん喋ったから、喉が渇く。下の自販機で水を買ってくれば良かった、とわたしはこっそり後悔した。チーコの返事は、ない。あのうるさいほどに元気な、口をガムテで塞いでおきたいくらい喧しい声は返ってこない。もっとも、あれが返ってきても困るのだが。あれから何十年経ったと思っているんだ、いくらチーコでもあのときのままじゃ困る。わたしたちは、大人になったんだから。
「……チーコ?」
 返事はない。その横顔は、四角く切り取られた青空を見つめている。あまりの無反応に、耳が聴こえていないんじゃないかと疑いたくなった。
 チーコ。
 わたしはそっと呼びかける。振り向かない背中に、あのときと変わらないくらい細い肩幅に。返されない声に怖気付いて、口の中でもごもごとその名前を呼ぶ。
 チーコ。
 うるさくてバカで、ムカつくチーコ、背伸びしたがりのチーコ、わたしのチーコ。青空そのものみたいだったチーコが見つめるのはあのときと変わらない青空のはずなのに、その焦点も合わない瞳で何が見えるの。
 わたしのことも映さないでなにを見てるの。
 あのあと、ハクアイシュギトークをした日の翌週に、チーコは転校していった。お母さんがサイコンしたのだと聞いた。当時はサイコンが何かよくわからなかったけれど、先生が「千代子さんは幸せになりに行ったのよ」と教えてくれたから、そういうものなのかと納得していた。
 手紙を出した。返事ははやかった。さすがチーコだ、とわたしはお母さんと笑った。やりとりの間隔はだんだんと開いていって、メールでのやりとりが完全に普及した中二になるころには、もうすっかり途絶えていた。特に気にしなかった。わたしはクラスメイトたちと気になる男の子の話を、夜が更けていくのも忘れてメールするのに夢中だった。チーコだってそうだっただろう。だから別に、わたしは悪くないのだ。そりゃそうだろう。勝手に罪悪感を覚えるのも失礼というものだ。
 だから、知らなかった。なにも知らないままで、いつのまにかチーコは壊れていた。壊されていたことを知ったときには、彼女の全身の痣もぼんやりと薄まっていた。犯人だって骨になっていた。破壊されたチーコが、もう屍みたいになったチーコだけがひとり、残されていた。そのときに湧き上がった感情は、やはりというかなんというか、怒りだった。愚かなことに。
 チーコ、わたしのチーコ、今さら一番の友だちだって顔をしたってあなたは本当は認めないでしょう。だから一番の友だちだって顔をしよう。慣れ慣れしく振る舞って、傲慢にも覚えた後悔を満たすみたいに甲斐甲斐しく世話をしよう。だから、怒鳴ってよ。こっちを向いて、怒ってよ。
 こんなことは本当に後出しジャンケンだけれど、あの日チーコがハクアイシュギを語ったときのことをわたしはよく覚えている。チーコと連絡をとらなくなって、わたしはわたしで恋人との関係に苦心したりして、お酒の限度量をとっくにわかっていながらわざとハメを外したりして、そんなときでもあのときのことだけは覚えていた。チーコが蹴り飛ばしたボールの軌道、額に光っていた汗、抜けるような青空の匂い。チーコの呼ぶわたしの名前の、ちょっと癖のあるイントネーション、
 ボールとってきてよと言い出す前の一瞬、泣き出しそうだったチーコの顔。
 わからないフリを突き通そうとした。わたしにしては珍しく、精いっぱい子どもぶって。だって、先生は言ったのだ。幸せになりに行った、って。大人が嘘をつくはずないじゃないか。だって大人は嘘をついたら怒るんだから!
 今さら言えない。言えるはずがない、だってこの感情は本物じゃないから。あのとき内心でこっそりチーコのことを見下していた。当時気がつかなかったけど、あれはたしかな快感だった。そんなわたしが言えるわけがない。
 チーコが一番の友だちだったなんて、あの時代のわたしはあなたに救われていたって、そんなこと。
 口が裂けたって言えない。嘘でも言えるはずがない。
 チーコを助けられなかったわたしが、どのツラ下げたら言えるのだ。百回生まれ直したって無理だ。こんな薄情なわたしがそんなこと思うはずがない、だからこの感情は本物じゃない。酔っている。酔っているだけだ。何もかもに。だから、言わない。
 こっちを見てよなんて、言わない。
 わたしは、ひょっとしたらもしかしたらわたしたちは、あのとき人間不信がポーズとして流行っていることをわかっていた。「思春期」の未熟な感情の揺れを、そういうふうに微笑まれると知っていた。自分たちだって思春期真っ只中だったくせに、そう扱う大人を俯瞰して見ることでわたしたちは無敵だった。
 わたしたちはそうやって自分を守っていた。
 守っていたのは自分のことだけで、もしあのときその感情を認めていたら、大人のことがきらいだ、怖いと素直に嘆いていたら、違っただろうか。悪夢にチーコの心身が蝕まれる前に、チーコはキレて逃げ出せただろうか。怯えることはカッコ悪くないと、わたしが教えていたら。
 ふと、頬に風を感じた。びくっとして顔を上げると、チーコが病室の窓際に体を寄せていた。チーコが窓を開けたらしい。わたしは彼女を驚かせないように、そっとその近くに寄った。相変わらず、その瞳は何を映しているのかわからなかった。
「チーコ」
風が気持ちいい。彼女の睫毛が、ふるふると揺らされている。瞬きだけが、彼女がまだ生きていることを教えてくれる。
 そっと、手を握ってみた。振り払われるかと思ったけれど、特にそうされることはなかった。もちろん、握り返されることも。
 わたしはそっとチーコの薬指から、どうしてこんなサイズが入るのだろうと思われる指輪を静かに抜き取った。抵抗されないことを、喜べもしなければ悲しいのかもわからない。続いて自分の薬指からも、指輪を抜いた。今も東京の家でわたしを待ってくれているであろう人の姿が、ほんの少し浮かんで後ろ暗くなった。
 わたしたちは、どうやって生きていけばいいのだろう。
 その主語が二人であっても、頭は一人分しかないことを思いながら、そう考える。青空は祝福みたいな色をしている。息を吸い込むだけでロマンチストになってしまいそうなほど。そっと、瞳を伏せてお祈りをする。信仰心は厚くない方だけれど、今なら許される気がした。
 これはわたしのエゴだとわかっているから、どうかこれ以上裁かないで、と。
 緩く握った手の中で、ほんの少し、僅かにチーコの指が動いた。それだけで泣いてしまいそうになる。彼女が痛みを感じないように最新の注意を払いながら、わたしはすこしだけ、触れ合う指に力を込めた。
 うまい棒を、買いに行こう。
 二人分の無関係な指輪同士が、ポケットの中で触れ合う。わたしはきっと、これを中庭の池に捨ててしまうだろう。そして、呑気にうまい棒を買って、なっとう味は罰ゲームの味だって泣こう。
 この病室で。
 チーコのとなりで。

 

 

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