銀色

 

接吻の雨に濡らされるくらいなら2月の雪に濡れたい。足を休めるために寄ったカフェの隣の席では処女の思い出でえらく盛り上がっていた。かちゃかちゃと控えめに鳴りながら白い皿の上でフォークを動かすとデニッシュ生地がぱらぱらと割れた。ポロの助手席で耳元に愛を囁かれたときのことを思い出していた。窓から見えた夕焼け時の空を、よく覚えている。事の最中に目尻と右頬のほくろによく触れる人だった。「こどもっぽくて、セクシー」なのだと言った。その言葉を、道徳のコマーシャルを見るような気持ちで聞いていた。小さく手を挙げて指をひらつかせると、アルバイトとおぼしき青年がコーヒーのお代わりを注いでくれる。雪のような人と言うと語弊がある。ちっとも冷たくはなかった。饒舌でなかったというので、夏の対極のイメージになったのかもしれない。真冬には熱く、夏にはひんやりと抱く人だった。お酒に詳しかったけれど、あまり飲むところは見せなかった。夏でなくとも、よく海に連れて行きたがった。そのくせ泳ぐのは嫌いだと強く主張する頑固なところがあった。彼が消えたのは5度目の夏だった。「人魚だって言ったら、信じる?」と、消える一週間前に彼は言った。「男なのに?」と返せば、彼はしばらく目を伏せたのだけれど、そのまま眠ってしまったのでその話はそこで終わったのだった。あのとき問い詰めておけば良かったかどうか、については考えていない。考えていないということは、特に後悔はないのだと思う。何かと目元に寄せてくることの多かった手のひらは、薄く、骨張っていた。見られるのが好きじゃないのだと言っていた。とりわけ繋がっているときは目を覆いに来たがった。それだから今になってもあの皮膚の感覚を鮮明に覚えているのだと思う。彼といた時間はその後の他の人に比べてとてつもなく長かったけれど、友人からの心配は彼がぶっちぎりだった。「幸が薄そう」というのが彼女たちの言い分だった。彼が、幸が薄そうだったのかどうか、今でも分からないけれど当時の不満のひとつに唇が薄い、というところがあった。皿の上のデニッシュが、ちょうどチョコレートに到達した。喉の奥に、甘さが貼り付く。グレーのセーターを、好んで着ていた人だった。しばしば、生地を引っ張って編み目を解明したがった。大手チェーンコーヒーショップのフラペチーノに関する話題に、隣の席は移っていた。制服のころの思い出や指輪を海へ投げたときの壮絶な半年の記憶などが、自分の中に立ち上がっては消え立ち上がっては消えていくのを眺めていた。何人の人間が積み上げられてこの手のひらになっているのだろう。想像もつかなかった。唇にあてたカップがひたりと冷えていた。もう飲み干していたことに気付く。立ち上がって会計を済ませた。あの人が今、どうしているのか知ったことではないけれど、もしも街ですれ違ったら言ってやろうと思う。もうポロに乗る男とは付き合うことはないでしょうって。あの時ひどく暖房の効いた車内で、普段あまり汗をかかないあなたが触れるそばからひたりひたりと鳴ったこと、キーのチャームが翌日変わったこと、付けていたピアスを片方無くしたこと。記憶は時の経つごとに確実に薄れゆく。偶然か追うようにしてカフェを出てきた隣の席に座っていた二人は、再び処女の思い出の話題になっていた。雪の降らない街で、あの人に出会って、それから街にあるカフェに少しだけ詳しくなった。甘いコーヒーが好きな人だった。愛に照れて、うつむく人だった。骨張った腕で、確かめるように抱く人だった。2月の空なんて、次の12月には当然覚えていない。2年前に買った車に乗り込む。寒いけれど、手袋のいるほどではなかった。雪の降らない街を、走る。無人になった心を携えて、アクセルを踏み込む。