無題

過去が窓から顔を出して言ってくる。「きみ、もう少しステキな人だったじゃない」私もそう思う、と返すと、持参したと言うカエル型のマグカップを差し出して、過去は「おかわり」と言う。ポットからコーヒーを注ぐと、湯気が立ち上る。「寒いよ。締めてよ、窓」「いいけど、中には入れてくれないんでしょ」「入れないわよ。過去だなんて言い張って。得体が知れないもの」「じゃあ我慢してよ。冷たい空気も悪くないものだよ。特に、そう、今のきみみたいな人なんかには」私は取り合うのをやめて、手元の棒針に集中する。「オイスター・グレイの砂浜をさ」過去が相変わらず窓から顔だけを突っ込んだまま、言ってくる。「布屋で買ったみたいなワンピース一枚で、疲れを知らず駆け回るような子だったよ、きみは」手元で一針ごとに立ち上がっていく長さを撫でる。いい色だ。この毛糸にして、正解だったかもしれない。「星を愛して、水を祈って、素肌に恋をして、空を食べる。きみながらいい趣味をしていたよ、全く」空腹を覚えてちらりと時計を見ると、それなりの時間だった。今日のお昼は何にしようか、パスタを茹でようか考えていると、声が思考を邪魔する。「何から逃げているの」私はため息をついて決意を変える。無視し続けても、この過去というのはずっと話しかけて来そうだ。「逃げてないわよ。避けているだけ」「何から」「ミートソースとカルボナーラ、どっちがいいと思う?」「カルボナーラ」エプロンを着けてキッチンに向かうと、ミートソースの準備を始める。「頭の中がお花畑」ぴくり、と私の手が止まる。「いくらあなたが過去だろうと、プライバシーというものはあると思うのだけれど」「そんなに悔しい? それとも恥ずかしい?」相変わらず無神経に、こちらの言い分を聞くことなく声が追っかけてくる。私はため息をつく。もういいじゃない、そんなことは。私は泣き出したいような気持ちに駆られる。ただし涙は出ない。出すつもりもない。「届かれそうになったから逃げたのよ」「それはきみのこと? それともあの人のこと?」私は忌々しげに舌を鳴らす。「私じゃないわよ」「たとえお花畑だろうと、そこに何の花が植えられていてどんな形と色をしているか見ればいいのに」「そう思うなら私に言いに来ないでちょうだい。それにお花畑じゃないわ」「でも結局捉えた人のものだろう?」「あなたは私を怒らせに来たの?」そうじゃないよ、と過去は言った、振り向くと相変わらず窓から顔だけを突っ込んでいた。目が合う。過去が口を開くが、何も発しない。窓際にポットを持って寄ると、「勝手におかわりして」と私は言う。「あの人に違うと言われたらそれでおしまいなの?」ちょうど背を向けたままで、私は少し、時間を失う。「きみにはあの人が世界なの?」「そんなことないわよ。誰か一人が世界じゃないことを知らないほど、私は子供じゃない」「それでも変わってしまうほどには子供だ。きみも、あの人も」「何を言いたいのか」わからないわ、と吐き捨てて私は時間を取り戻す。パスタの茹で時間をセットしたキッチンタイマーがリリリリと鳴った。ざるに熱湯ごと鍋の中身を開けると、そのざばざばと音の向こうで過去が言った。「会いたいだけなんだ」「誰に」「きみに」「今こうして会っているじゃない」「オイスター・グレイの少女にだよ」「もう少女という歳じゃないでしょう」「きみはほんの二年や三年を浦島太郎くらいに捉えてしまうところがあるね」ダイニングのテーブルを布巾で拭く。「忘れられないはずだよ、きみは。空の味、それから、あの人のこと」器に盛ったパスタに、ソースをかける。どくどくと手の上で流れ込んでいく。テーブルに、ことん、ことんと二皿置いて窓を振り返ると、過去は突っ込んでいた顔を半分だけにして言った。「拾い集めるんでしょう。信じてみるうつくしさの欠片を、ぼろぼろになりながらきみは、洗いざらしのワンピースで」私はまっすぐな瞳で過去を見つめた。冷たい風が吹き込んで、過去は消えていた。私は二人分のミートソース・パスタを目の前にしばし黙っていた。床に散らばっていたフィルムと、脱ぎっぱなしのTシャツを拾い上げた。生きている、昼だった。