ベリーベリーストロベリー

 リミットは五ヶ月と決めていた。それは、私が何も知らずにのうのうと生きていた時間だ。
 一ヶ月目は、図々しく自分を責めることにした。ことにしたというか、そうすることしかできなかったのだ。私は愚かだから。
 二ヶ月目は、平然と生きることにした。それが一番恥知らずで罰当たりと思ったから。友達とディズニーランドに行った。仲の良い友達ではなかったけれど、どうでもいい関係と言うには忍びない、それくらいの。たくさん、ご飯に出かけた。一番楽しかったのはサーティーワン。みんなでどのフレーバーにするかワイワイ相談するのが、とても年相応の生活っぽかった。楽しいな、と思った。ああ、みんなは毎日こんな生活をしていたんだな、ゾンビに見えて仕方なかったあの人たちは。フレーバーは、チョコミントとジャモカコーヒーにした。ラブポーションサーティーワンとポッピングシャワーも捨てがたかったけど、悩みに悩んだ結果やめた。なかなか決まらない私をみんな可笑しそうに笑って見ていた。カナちゃんのキャラメルリボンを一口貰った。甘くて、美味しかった。
 三ヵ月目と四ヵ月目は、全部忘れていた。学校の授業に悩殺された。何も知らないでいた頃と全く同じ、まるで転写したみたいに同じ日々だった。このまま忘れても、誰も忘れたことに気付かないだろうな、と思った。
 そうやって五ヶ月目になったから、私は散らかった部屋を丁寧に片付け始めた。フローリングの見える面積が広がっていくのは、心地良かった。気持ちまで晴れていきそうだった。きちんと炊事をした。あたたかいものを食べるのは存外侮れない効果を持っている。机が広くなったから、適当な検定に申し込んだ。勉強をしてみることにした。思いの外捗って、掃除は大事だな、としみじみした。よく外を歩くようになった。お気に入りのラジオをイヤホンで流しながら靴を履くと、不思議とどこまでも歩きたくなった。地図は見なかった。完璧に思った通りの道に出ることはなかったけれど、結構どうにかなった。
 お米をこまめに炊いた。やはり米は偉大だ。あるだけで自炊をする気になる。気温が次第に下がってきたから、鍋にして雑炊で〆るのもいい。胃腸はいつも調子が良く、気分を爽快にしてくれた。それで、ホームドアのない新宿駅に向かう足取りはこんなにも軽いのだ。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。
 いつだったか誰かが、私のことを可哀想だと言っていた。吐き出す二酸化炭素があまりに稚拙で、本質に辿り着けないまま死んでいくことしかできない様が哀れだと。あの人は今、どうしているだろう。元気にしているだろうか。唐突に今、不幸を願った。人間はこんなに他人のことで心を尽くせるのだと初めて知った。名前も顔も思い出せないその人が、どうしようもなく不幸でいますように。
 私は呪いたかったのかもしれない。でも呪い方がよくわからなかった。呪っていいかどうかも、わからなかった。放つべき毒は内側に蓄積していった。本来持つべき強さのぶんだけ、それは己を蝕んだ。
 だから、死ぬんだ。彼女が決別した世界に、私が馴染めるはずもなかった。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。お腹が空くように、眠たくなるように、愛されたくなるように、セックスをしたいのと同様に、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。生まれたことを嘆いて大声をあげるのは、赤ちゃんのときは許されていたのに。いつ、どの瞬間にそれがいけないことになったのだろう。生きなくてはいけないと、決められたのだろう。
 幸せを欲して楽になるのなら、いくらでも求めた。祈った。けれどそんなことはなかったから、望まなかった。幸せになんてならなくていいから、はやく楽にしてほしかった、それだけだった。たったそれっぽっちのことだった。生物として成立するまでの数多とある困難を乗り越えて奇跡を起こしてみせた肉体のくせに、そんなことすら叶わないなんてどうかしている。

 訃報を聞いたのは、彼女が死んでから五ヶ月ほど経った頃だった。

 自殺だった。公園で首を吊っていたという。飛び降りじゃなくて良かった、ととっさに思ったのはどうしてだったのだろう。体がぐしゃぐしゃに潰れなくて良かった。なぜそんなことを思ったのだろう。でも真っ先に頭に浮かんだのは、そんなことだった。
 死ぬというのは、どういうことなのだろう。未だにわからないでいる。確かなのはただ、私がそんなことも知らずのうのうと生きていたとき、彼女はそれを責めることすらもうできなかったということだけ。でもたぶん、ぼんやりと線路を覗き込みながら、私は思う。ただ死ぬだけじゃない、事故でも病気でもない、自分の意思でこの世に、生きることに見切りをつけるということ。それはたぶん、十字架をぶん投げることだ。背負えと詰りながら重い重い枷を縛りつけて、それでもそれを感じることも許さないと断じることだ。彼女の死を悼む権利なんて、誰にもなかった。彼女がそれを許すはずなかった。だって絶望したんだから。して、して、して、もうし尽くしてし尽くしてし尽くして底をついたんだから。
 そうなるまで、彼女は世界に見捨てられ続けたのだから。私も、あの子も、誰も彼もが含まれた世界に。それは明言していなくとも、拒絶に等しかった。彼女は世界に拒絶されたから拒絶し返した。生まれて初めて私のことを褒めてくれた、あの人。私は彼女のことが苦手だった。馬が合わなかった。
 ゴー、と遠くで音がする。どうして、新宿にはホームドアがないんだろう。一番必要な気がするのに。ゆっくりと地面が近づいてくる。体が重いのは、重力の影響を強く受けているからだろう。足は体を地面に繋ぎ止めることをもう放棄していた。
 あなたがいない世界なんて、と思ったことはない。
 なかった、五ヶ月間一度も。私たちはそんなに親しくなかった。あなたの死で悲しみに暮れるほど、私たちは額を寄せて澱んだ夜をマックで過ごしたこともなかった。後を追いたいほど好きでもなかった。
 それでも、死のうと思うのだ。大して重要でもない糸は、しかし切れるともう生きる気力も湧かなかった。死ぬ計画を立てる瞬間だけが心から安心できた。でもそれは彼女のせいでもない、おかげでもない。そんなことはとっくに、数えてみればきっと十年以上前から考えていたことだ。
 どうしてみんな、死にたいことが当たり前じゃないんだろう。
 それが当たり前でさえあったら、セフレを作るみたいに、簡単に死にたがれたはずなのに。
 怒号が聞こえる。まばゆい光で目が眩む。強い存在感が、吐き気を催すほど痛烈に迫るのを感じる。私は、と念じると、その音に沿って微かに唇が動いた。わたしは。
 わたしは別にあなたのことなんて好きじゃなかったし、かなしくもつらくもなかったし。
 しあわせだって、のぞんだことはなかったし。