もうこんな汚い世界にいたくない。

感性が死んだ奴ばっか。

美しいものの美しさを感じることができず、痛ましいものに触れて悲しみのあまり泣き出すこともない。

人の感じ入るものに対して、感じ入るという発想自体を持つことができず、尊重して接することもできない。

なんでそんな粗雑な感性を引っさげてる奴ばっか。

感性ゾンビですか、そんなゾンビばかりホイホイしてる私はならば私こそが火葬場ですか、焼いて差し上げてかまいませんか。

 

あんな鈍くて汚い感性の方が、圧倒的に楽に生きていけるなんて。味わい損ねた感情すら、ゾンビにとってはもとより価値がないのだから。

 

諦観、悟りばかり美徳とされ、足掻いてみることがそんなに醜悪で蔑まれるなんて。こちらが幼稚なのだそうだ。そしてあちらが圧倒的マジョリティーなのだそうだ。

 

非ゾンビである私がマイノリティーならば、機微に打たれた心が誰かと響き合うという、人生の意味を、真髄を味わうこともできず、深い関わり合いを持って関係を構築することもできず、「感じ」ない人に出会う度傷つけられる。

 

その「感じ」ない人でほとんど世界が構築されているのだ。

 

私は生きるだけで無遠慮に穢されていくのだ。

 

その薄っぺらいペラペラな感性で、私が私自身を明け渡す覚悟までした大事な芸術たちが、蹂躙されていくのだ。

こんなことを、一生耐え続けなくちゃいけないなんて。そんな汚い人たちが、常に私の世界にいる。そんな悪夢を、許さなくちゃいけないなんて。

 

「感じ」取れる、入れる人、いることにはいるのだろう。圧倒的少なさで、いることにはいて、けれどもその一部もまた自分を守るためにそのセンサーを殻で覆っていくのだろう。

いるはずなのに、私こそが、そんな人たちと出会うべきなのに、どうして出会えない。

私の生活圏内に、どうして見つけることができない。ちゃんと、ネットの外で。

 

もうたくさんだ。うんざりだ。

そんな人たち、つまりゾンビたちがいるのはいい。仕方のないことだ。その現実こそ痛ましいながらも、揺るぎようがない事実だ。

こちらに来るな。私の世界を穢すな。

私は必死に息をできる場所を探しているというのに、柏木公園の副流煙のど真ん中でも飄々と息をできる奴が私のなけなしの酸素を奪うな。

こんな人たちで溢れた世界を私は渡っていかなくちゃならないだって?

私の感性を殺すために、そんなくだらない遊びのために神は世界を作ったのか?

 

こんな汚い世界、もうたくさんだ。

こんな汚いところで、息をさせられること自体冒涜だ。

剥き出しの心でいることがそんなに間違いか。それならばその証明に私という存在を世界を以て否定した方がいい。殺すなりなんなりして。

 

私の心が、心のあり方が、私の世界が、無遠慮に穢されて蹂躙されていく。世界がそんなゾンビたちで埋まっているというのなら、私はもうどこへ逃げれば良いのだ。