蛇のピアス

  

 学生時代の記憶の中で、窓際に関する記憶には、必ずひとつ、こがねいろにうつくしいものがあるのだという。

 わたしで言えばそれは高校二年生のときの確か三度目の席替えのあと。窓から三列、後ろからは二番目の悪くない席で、わたしは一度だけ、絵画のような瞬間を見たことがある。わたしの席から斜め左前にあたる方向、窓際の席。いつもえんじ色のセーターの、骨ばった背中。少し肌寒い日の午後、英語の授業中に換気だと開け放たれた窓のそばで、彼がバレないように小さく欠伸をして、その反動でぎゅっと目が結ぼれた、あの一瞬。外は突き抜ける青をした晴れ方だったけれど、そんなことも眩むような日だまりが半径彼メートルだけ波打った。わたしはその時に思ったのだ。うつくしいという言葉を聞いたら、わたしはきっとこの一瞬のことを思い浮かべるのだろう。十年たっても二十年たっても、この永遠に続いてしまえそうに思えるこがねいろを、わたしはうつくしいという言葉を聞くたびに思い返すのだろう。

 当時セーターの色でしか知らなかったその席の男子生徒のことを、わたしは今でも、この世界がうつくしい証拠として、記憶の中になくさずに持っている。

 

◇◆◇

 

 遅れると連絡が入っていたものの、結局インターホンが鳴ったのは予定よりほんの三十分後だった。

 玄関の扉を開けると、客人は何を言うでもなくわたしをじっと見つめた。その睫毛一本一本の動きに、愛しくてたまらないと言われているようで身じろいでしまう。

「睫毛」

 彼がぽつんと言った。「伸びた?」

「ううん」

 わたしは頭を振って、「入って」と言う。彼は黙って頷いて、首の汗を拭った。彼が上がってから扉を閉めると、立ち上がるように彼の匂いがしてわたしは泣きたいほどの安堵感に駆られた。

「お腹すいてる?」

「いや」

 遅めのお昼には遅い時刻だった。何か口に入れられているのなら、それでいい。暖房のよく効いた室内で、彼が汗を拭うのを見ながらわたしはケトルをコンロにかけた。汗が引くのは速い。彼が風邪をひいてはいけない。

「さむい」

 彼がぽつりと呟く。彼の方を見ると、彼はソファに沈んでいる。

「お風呂、入る?」

「いや」

「今、紅茶淹れてる」

「ありがとう」

 いるのかいないのか、彼はとても曖昧な存在感をしている。多分、わたしがいないと決めればいないことになってしまえるような。釈然としない彼の声音に、わたしは次の発言を待つ。その間に、ごぽごぽと鳴ってお湯が沸いたことを知らされる。

「さむい」

 彼が言う。催眠術のように、わたしに求めることを仕向ける。ソファに沈んだまま、彼が右目で振り向いている。

 

「きみはきれいだ」

 わたしを抱き枕にして、彼はわたしの左耳に囁く。

「ほんとうにきれい。ぼくが知るいちばんきれいだった空よりも、きれい」

 わたしはその言葉を、天井を見つめて聞く。左腕に、彼の温度を感じながら聞く。わたしはきれい。彼によるとなのだそうなのだ。馬鹿の一つ覚えくらいの頻度で言うのだ。そのくせ、彼はどうやら毎回毎回その事実に気がついて感嘆するように言うのだ。きみは、きれいだ、って。

「こっちを向いて」

 自分が視界に入りにくることはせずに、彼は言う。

「あたたかいね」

 わたしは心からあたたかい、と感じながら、そうねと答える。彼の心から溶け出したような表情を、彼の右側から眺めながら、あらためて「あたたかい」と呟く。

 

 知り合って、はじめてもらったプレゼントはピアスだった。片っぽだけのピアス。

 わたしの左耳を、まるで自分が腹を痛めて産んだ赤子でもあるかのような愛おしさで彼は触れて、わたしがそのことに人生でいちばんどぎまぎしている間にピアスが刺さっていた。彼の手が左耳から離れて、彼の顔が左耳から離れたとき、わたしはこの密度の心臓収縮が右耳ぶんも耐えねばならないのかと愕然としたのだったが、それはとんだ拍子抜けだったのである。

 図々しくぎゅっと結んでいた目を開くと、ピアスの片割れは彼の右の耳についていた。「ふたりでひとつだね」と彼は言った。わたしは言葉を失って、ただこくこくと頷いたのだった。

 

 彼がどうやらわたしだけではないということを勘付きはじめたのは、彼の左耳に、彼の右耳とは別のピアスを見つけてからだった。そのピアスは、わたしと分けたものと違って華やかでなくて、つけているだけといったデザインだったのに、わたしはそのピアスを目にしたときに激情に駆られたのだった。ほかに、いる。多分、甘い言葉を、右耳に囁かれる女が。

 その日いつものように彼の右側に腰を下ろしながら、なんてことないように彼の左手に触れてみた。瞬間、彼は何事もないようにわたしの手をするりとほどいた。わたしは今更のように思い出していた。彼が、わたしの左側にしか来ないこと。彼の、右側にしか触れたことがなかったこと。

「ぼく、右半身と左半身は別人格なんだ」

 彼は冗談めかして笑った。誰がどう聞いても冗談だった。けれど事実であると、どうしてこんなにもわたしは分かってしまうのだろう。泣き喚きたいでもない、何かを壊してしまいたいでもない、ただ顔を覆って泣き出したいという気持ちを、わたしはこのときはじめて味わった。

 

 

 甘やかという言葉が綿菓子なんかを指し示すのだとすれば、わたしたちの時間は甘やかでこそなかったものの、綿菓子の手触りは持ち合わせていた。 彼とわたしとの間に流れる空気、より正確に言い表そうとするならば窒素、というものは、帰りの電車のまどろみよりあたたかくて、同時に待ちわびるような「足りなさ」があった。この「足りなさ」というのは、「かなしみ」や「切なさ」という言葉では不適切で、結局辞書をひっくり返したのちに改めて「足りなさ」と言うしかない感情なのだった。

「あの大通りのイチョウが全て散ってしまったら、おしまい」

 わたしの左側の髪の毛を丁寧に梳きながら、ある時彼が突然言った。

「なにが」

 彼の発言に対して何かを尋ねることは、野暮なことと思っていたけれど、突然のことにわたしはぽかんとして思わず言った。

 「きみと、ぼく」

  彼が言う。

 わたしと、彼。

 「なぜ?」

 聞いても、彼は答えない。

 その沈黙を、彼は芸術作品のように扱っていた。彼が答えないのではない、時計が進むのを戸惑っているのだとでも言うように。

 「結婚するの?」

 唇がひらひらと動いて、わたしはそう問うていた。言いながらわたしは驚いていた。え、そうなの? 結婚するの? どうしてわたしそんなことを思ったの?

 彼は驚いたように頰をすぼめて、それからちょっとして、「うん」と言った。

 愕然としたきもちと、ああやっぱりというきもちが混ざり合って浮かんだ。考えてみたこともなかったのに、どこかで知っていたような、そんな気持ちだった。少なくとも、これだけは分かっていた気がする。というのはつまり、彼が、最終的にわたしのものになることはないということ。それが諦観なのか負け惜しみなのか現実逃避なのか、どれをとっても違う気がするけれど、まるで当たり前のことのようにそこにあった。それでいて化粧後のそばかすのように、全く気を払っていなかった。わたしはそのことが不思議であり、また同時にそのことすらも当然のような気がした。

 大通りのイチョウは、未だうつくしく道ゆく人々を染めていた。わたしはそれを見ながら、果たして散りませんようにと願うのが正解なのか頭を悩ませた。さながらスーのように? 

 別れ際、彼はわたしの左頬に口づけて帰っていった。触れたやわらかな唇の細胞ひとつ余すことなくシルクのような愛情が零れていて、わたしはさっきのことなど嘘でしかないように感じられて、だからこそ嘘ではないのだと悟った。

 

 

 時間に速度などなくて、一分はきっかり60秒で進む。くすんだ色のマフラーを、自分用に買った。同様に、彼と会う頻度は変わることはなかった。減りもしないし、増えもしない。彼の右手のひらの皮膚の肌触りを、必死に覚えておくことはしない。わたしはカウントダウンをするつもりはない。わたしの左隣で、彼がわたしの淹れた紅茶を神妙に右手でカップを持って、飲む。わたしはそれを両目で見ている。

 大通りのイチョウは、確実に葉を減らしていた。彼と出会ったのはこの頃だった。彼とこの季節を過ごすのは、ちょうど二度目だった。彼に教わったというわけではないけれど、日光の硬度を観察し始めた時期と、彼と知り合った時期はほぼ一致している。彼は、「うつくしい」という言葉をよく使う。わたしが、その世界、知ってるよ、という顔をして頷くと、彼はとても嬉しそうに笑うのだった。

「珍しいね」

「……」

「マフラー。そういう色の」

 この日わたしが機嫌を損ねていたのは、一昨日の彼の言葉を反芻していたからだった。

 きみの右耳で聞くぼくの声は、きっときみは嫌いだよ。

  腹が立ったのか、だとしたら何にだろうか。勝手に決めつけること? それでも彼の言葉が絶対であることをわたしは知っていた。彼が言うならそうなのだろうと思った。だから腹いせと言うのは少し違うと思う。ただ無意識に、わたしはするりと彼に言った。

 「結婚式、行ってもいい」

「……え?」

 こんなに、彼の表情筋が使われているのを見たのははじめてのことだと思われた。わたしはそのことについて、皮肉なことだと唇を歪めるかどうかに、しばし考える時間を費やした。

「……ごめん。ちょっと、びっくりして」

 嘘。びっくりしたなんて体のいい文句だ。引いただけのくせに。

 彼は、空を見上げながら「招待状、送るよ」と言った。指先だけを絡めて歩くイチョウ並木は、心臓が爆発しそうなほどうっとりとした色で、同様に鮮やかな、紅茶の色を思い返しながらわたしは「ありがとう」と言った。くすんだ色のマフラーに顔を埋めながら、正解の買い物をした、と思った。やや傾斜をつけて見上げる彼の顔は見慣れた右側で、初恋のようにどきどきとする。彼の睫毛がしばし動いて、わたしを見る。彼がやさしく微笑む。わたしは彼の右目をみて、確かめるように微笑む。安堵が眠気をもたらすというのは本当で、彼がちいさく欠伸をする。わたしはそれをじっと見つめている。

 

 

 数日して、部屋のポストに招待状が投函されていた。走って大通りを見に行くと、イチョウの葉はきれいに全て散り去っていた。欠伸をしそこねたような気持ちだけが、わたしにぐっとおしかかっていた。わたしは黙って、落ち葉を見ていた。落ち葉は、くすんだ色をしていた。

 

 

 そのようにしてわたしたちは終わったわけで、寒さの厳しくなるタイミングはちょうど重なったようだったけれど、彼が執拗に褒めたマフラーは依然としてあたたかかった。左耳のピアスは外すのを忘れたまま、カレンダーが新調されたりコートがクリーニング行きになったりした。

 冬が終われば、陽だまりを見つけることへの有難さは薄れていく。たやすく見つかる陽だまりに彼を投影する習慣が生まれるのは、当然のことだった。彼と過ごした日々は、わたしのなかでただ存在のみしていた。朝、起きること。トーストを焼いて、バターを塗ること(時々、マーマレードも塗ること)。パンプスを履くと背がすらりとなること、洗ったあとのケトルから滴る水滴は心地よいこと。夜は気温が下がることや、あつあつのお湯を張ったバスタブに肩まで浸かること。ふかふかの布団に、くるまって眠ること。そうした生活のひとつひとつを、意図してもしなくても呼吸はできる原理と同じように、わたしはしていた。日光の硬度に加えて、風の密度が気になるようになり、わたしは思う。わたしの選ぶ「うつくしさ」は、彼の口癖であったところの「うつくしさ」に重なり始めている、ということを。そのようにして、彼は既にわたしとして、わたしの生活にひたりと存在しているのだ、と。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「人生って、ケーキ作りに似てる」

 休憩中、ぽろっとこぼした一言だった。耳敏く拾ったのは同僚の女の子で、「え~なになに、どういうこと?」の一声で、その瞬間会話の中心に立たされていた。

「美味しく、なるには、ケーキ、たくさんの工程がいるから」

 死にたいほど嫌なことはないけれど、生きたいほどのときめきもない。決定的に宙ぶらりんで、楽になるなら絶望ですら望んでいた。なにか、感情を強く握りしめる、口実が欲しかった。

 自分の人生に価値を、自分で見いだせるのは、どれほど気の遠くなる毎日を塗り重ねた先だろうか。ぼんやりとそんなことを考えていたのが声に出てしまっただけで、追求されると言葉にするのは詰まった。

「ふーん。深いね」最初の女の子を筆頭に、その後、頭いいね、難しくてわかんない、ケーキ食べたくなってきた、と続く。その瞬間、自分でもびっくりするほど反発が頭をもたげた。まって。わたしは思う。まって、話を、進めてしまわないで。わたしはまだ言おうとしたことの半分も、きっと言えていない気がするのに、時計は正常な速さで回っているのにその時周りから人が消えた気がした。

 秋が、いそいそと帰り支度を整えていた。陽だまりを探して歩くけれど、もどかしい温度だけがそこにあった。今年の冬は寒くなるらしい。休憩がてら皆で囲んだテレビが、そう伝えていた。「温暖化どこいったんだよ」と誰かが言い、「独り身には堪えるッスね~」とおちゃらけ担当の後輩が一笑いを誘った。

 帰りに、パティスリーに寄った。縋るような気持ちで、ケーキを3つ選んだ。何かから守るように、あるいは何からも触れられてしまわないように。何度も何度も、昼間の同僚たちの、なんでもない言葉たちが浮かんで息が詰まりそうになりながら。ケーキたちが厳かに息を潜める箱を握りしめて、耐えるように家へ向かって、歩き出す。何を訴えかけるでもなく、ただ視界に映る道という道を知らない人たちが行き交う。頭では、彼らが同じ人間であるというのは分かっているのに、そのことが実感に辿り着く前にぺらりと落ちていくようだった。ざっ、ざっ、ざっ。道を埋め尽くすような数の個体が、各々の方向へ向かって歩いている。ここにいる人たちが、みんな何かを考えたり、思ったり感じたりする、「人間」であるなんて。ほんとうなの? そんな疑問のような思いから、気が遠くなる。わたしは、きっとわたし自身でもわかっていないほど広くて大きいものなのに、この個体数ぶん、そんなものがあるというのか。そう思ったら、視界を忙しなく行き交っていた影が全て、物のように見えた。ざっ、ざっ、ざっ。

 ――怖い。

 目眩に似たものがわたしを襲って、動かせていた、と思っていた足が思い通りにならなくなり、次の瞬間、わたしは転んでしまう。痛い、と思うより先に、大事に抱きしめていたケーキの箱から手が離れた。体の防衛本能から閉じられた瞳を、衝撃を感じると共に開く。喉の奥が、ズンと重くなった。少しでもどこか動かすと、何かが決定的に壊れてしまう気がした。

 そろそろと、目だけで惨状を確認しようとする。ストッキングは破れ、擦りむいていたが血が滲むほどではないようだった。ぐっと喉が固まる。周りからの視線を感じて、せめて道の隅に寄ろうとしたとき、はたとケーキのことを思い出す。弾けるように、あたりを見渡す。手を伸ばして十分届くところに、控えめでおしゃれなデザインが金色に印刷されたパティスリーの箱が、無残にひっくり返って、そこに佇んでいた。抱き寄せて、立ち上がる。足に力が入らなかった。よたよたと、歩く。一歩。二歩。三歩。むりだ、と思った。通行の妨げにならないことを確認すると、力が抜けたように、わたしは座り込んでしまう。

 冷えた指先で、抱きしめていた箱を開く。そこには、宝石みたいで、子供を慈しむように大切に繊細に作られたケーキが3個、並んでいるはずだった。パティスリーの凝られた照明の下で、ぬいぐるみのように優しく微笑んでいたケーキ。帰宅して、一人の部屋で、甘い音楽を流しながら口に運ぶつもりだった。そんなケーキが、潰れて、装飾はへんなところへ飛んでしまっている。倒れて隣のケーキに色が侵食し、たしかに美しさの一部だったはずのクリームが、箱の内側の壁にへばりついて酷く汚い。あんなに、あんなに。あんなに、すてきで、良くって、あんなに。わたしは、あんなに。

 うつくしいは、つづかないんだ。そう思ったら、涙が出てきてしまった。いい大人が、ケーキが台無しになったくらいで泣くなんて情けなかった。けれど、形のめちゃくちゃになったケーキを見た瞬間に、何かが壊れてしまった気がした。高校二年生のあの日、絵画のような日だまり、欠伸と細目に浮かんだ涙、えんじ色のセーター。わたしの歩幅と時計の速度。脳裏を駆け巡るものがわたしを縁取って、世界からの溝を深めていく。ああ、と思う。全てがわたしを置き去りにして、世界にひとり、わたしだけがぽつりとひとりぼっちだ。

 次から次へと浮かんでくる涙によってわたしの視界には膜が張られ、普段よりぼやけた景色の中でわたしの心みたいなものが、明確に形を持って削られていくのを感じていた。こんなに影はいて、これが人間だというのならば、道端でぼんやりと泣く女を人々は必死に視界に入れないようにしているらしかった。そのことがわたしのかなしみを助長した。だから、声をかけてくる人がいると思わなかったし、声をかけられていると気がついたときとてもびっくりしたのだ。

「どこか、痛いですか」

 低くて、少し掠れた声だった。今更だと思いながら、せめて今目に溜まっている涙だけは拭う。頰で乾き始めた跡も、見られたくはなかったけれどもう遅いと分かった。そうして、ようやくその声を発した影を見た。しゃがみこんでいるようで、視線は高さを変えることなくぶつかった。男の人だ、とぼんやり、それだけを思う。

 何か言わなくちゃ。口を開こうとして、しかし口を開けば嗚咽が漏れてしまいそうでできなかった。微かに唇を動かしていると、青年は言葉を、ぎりぎりわたしに触れてしまわない場所へ置くように呟いた。

「……くるしいのは、つらい、ので」

 わたしの腕の中からケーキの箱をさらって、そっとわたしの左手に触れて引っ張り上げる。一瞬前まで、もう動けないような気がする、とまで思っていたわたしの体に、風が吹き込むようにするりと腰が上がる。彼が手を引き人混みから抜けるまで、この時間が壊れてしまいそうだと思った。それは数分前までの状態に酷似した予感とは、全く別の色を伴っていた。安堵というよりは驚きで止まった涙が、内側で温度が上がっていく。

 

 彼に従っていけば、喧騒から外れて、公園にたどり着いていた。明るすぎない電灯が古びて突っ立っていて、少しだけわたしの安心を誘った。空いたベンチにわたしを腰掛けさせて、彼が左手を解放しつつ言う。

「ごめんなさい、勝手に連れ出して」

 足元で、散々落ちて積もったイチョウの葉がかさりとなる。息を吸い込むと、枯れ葉の匂いがする。あの、とわたしは言う。嗚咽にならないことを口の中で確認して、もう一度息を吸い、丁寧に声に出す。

「あの」

 はい、と彼は言いながら、わたしの左隣に腰をかけた。近すぎなくて、遠すぎなくて、ちょうどいい距離だった。

「ケーキが、買ったんですけど、せっかく。ケーキが、壊れてしまって」

 声にしながら、だんだんとしぼんでいく。言葉にしてみたら、余計に情けなさが際立った。収まっていたと思っていた嗚咽が、喉までこみ上げる。周りの夜の色が、途端に濃くなったように思われて、心が縮む。こんなことで情けないんですけどわたし自分でもわからなくてそれだけどどうしようもなく止まらなくてわたし、浮かぶ言葉をシュミレートしてみれば、みっともないほど早口になってしまい口を噤んでいた。何を、しているのだろう。この人は知らない人で、わたしは今何をしているのだろう。

「胃の中を、見てしまったんですね」

 彼の声がした。声の告げた文章をゆっくりとなぞって、わたしはえ、と思う。息を吸う音がほんの小さくして、彼はまた声を発する。

「ケーキ、あんな風になるの、胃の中ではじめて、だから。嫌なものを、見てしまったんだなと思って。かなしいことだから。だって」

 だって、あんなにうつくしかったのに。

 その声が鼓膜を震わせて数秒後、わたしの脳に届いたとき、ぱりんという音がした。

 きっとそんな音はしていないのに、たしかにそういう音がした。

 何か言わなくてはと思うのに、何も言葉にならない。かわりに、内側で塊が突き上げたような嗚咽が漏れた。

 静かな公園のなかで、わたしはわんわんと泣いた。彼の気配を左隣に感じて、その気配からなんとなく温度を感じて、そのことで余計に泣いてしまった。このままなくなってしまうのかもしれない、と思った。子供みたいな声が、自分の喉からどんどんとこぼれていく。見つけた、と思った。何を、というのはわからないけど、見つけた、出会った、と思った。先ほど手を引いてくれた彼の手を思い出して、ようやく抜け出せるんだと、強くわたしは思った。

 

 わたしと彼との出会いは、それが全てだった。というより、その瞬間がこの世界で唯一の出会いだとさえ思われた。これから訪れる冬が助走前にした深呼吸のようなあのときの温度を、わたしは肌の表面で、冷凍保存したかのように思い出せる。そんなドラマチックな出会いをしておいて、ゆっくりと始まった恋だった。ゆっくりと始まって、ゆっくりと進んだ。それは彼と過ごすまどろみそのもののようで、それでいて芯の通った確実な時間だった。彼の右の瞳から、静そのものみたいな凪とわたしに対する熱をいつも同時に見つけていた。

 恋だった、とわたしは穏やかな手つきで紅茶を口に含みながら思う。彼が失われた生活は春を迎えていた。やわらかな気持ちで取り込んだ空気に、肺が季節の変化を告げていた。ここにも彼がいる、とわたしは胸を抱きしめて思う。空気に四季の色を付けていったのは、他の誰でもなく彼だ。それは、あの夜が、彼と出会った奇跡みたいであまりにもその幸運にいっそ地獄とも思われるあの夜が存在しなければ、ありえないことだった。厳しい冬の間に、わたしは彼の喪失を受け入れ終えていたのだろう。わたしの左半身が知る、彼の右半身の喪失を。

 さよならの代理とされた招待状に記された日にちが、来週に迫っていた。彼のまだ見ぬ花嫁を思って、その祝福が春のうららかな晴天に包まれるといいな、とちいさく祈った。

 

 

 迎えた当日を、わたしは驚くほど穏やかな気持ちで迎えた。祈りが届いたのか空は優しさを飽和まで溶け込ませた色をしていて、わたしの髪を巻くみずからの手さえも優しかった。彼の花嫁の趣味は、どんなものなのだろう。席から遠く眺める彼が、全く違う人になっていて分からない可能性を考える。そうであったとしたら、純粋な可笑しさでわたしは彼との思い出を綴じることができるだろう、と思った。

 左耳に刺さったピアスは、あのやわらかなマフラーの記憶が始まった日から触れなかった。わたしはそれを、みっともない執着とは思わなかった。外すという行為はわざわざするもので、そういうことは必要ないと思ったからだった。空がぴかぴかと光る夏、汗に濡れた髪をかきあげるとき、冷えて感覚を失いそうな冬、耳をあたためるとき、左手に触れた異物感でその存在を思い出す。彼の右手がはじめてわたしの左耳に触れた日、鏡を何度も覗き込んでは彼を微笑ませたけれども、その装飾のあどけなさを確認することはもうしなかった。彼がなにを思ってわたしに触れたのか、それは彼のこれからの幸せを祝う今日となっては不必要な考えに思われた。覚えているのは、そのシルバーの色。たぶん、光があたるとやさしく光るだろう。それはもう、わたしの体の一部なのだった。

 会場の内装は、どこまでもやわらかいクリーム色をしていた。オフホワイトの無機質性や攻撃性は、神経質なまでに取り除かれている。彼と、彼の花嫁が幸福に満ちて選んだこの会場を、わたしも、素敵だな、と思う。単なる幸せを見届ける高揚感に似ていた。わたし自身もまた世界の一部となって、なにもかもが門出を祝福している、と感じた。周りはもちろん知らない人ばかりで、けれどもこの人たちが彼を祝ってくれるのだと思うと、まるで皆が古くからの友人のように思えるのだった。

 式はあたたかで、穏やかに始まった。春が滑り込んでくるような、幸せが吹き込んでくるような雰囲気をまとっていた。一冬ぶりに視界に映った彼の姿に、ピアスのあたりがほんのり灯るような心地がした。目は、合わない。彼の存在感の曖昧さが、主役にも関わらずその輪郭の脆さが、わたしの視界の中で彼を明確に彼たらしめていた。続いて、花嫁が入場してくる。ふわふわで天使のようなドレスに包まれた女性はお姫さまのような雰囲気をまとっていて、きっと彼の日々を可愛らしく彩るのだろうと思われた。わたしは何かに怯えることも、驚くこともなくその時間を過ごしていた。彼と同じ空間を分かつことがこれで最後であるのは自明であったから、そのことにほんの少し心を甘くさせたりした。進行を務める彼の友人という人は深く響くバリトンで、心地良くわたしの鼓膜を震わせている。

 主役の二人は、誓約を終えていた。指輪交換に移り、見守る思いであたりが満ちる。二人はお互いの瞳の奥まで見つめ合って、ガラス細工のように指先を触れ合わせる。彼の右手を見て、わたしたちの日々のあたたかさをわたしは思い出す。どうかそれも託すことができたならーーそう願っているうちに、花嫁の薬指に指輪が、まるでふさわしいもののように吸い込まれてはまる。

 あ、と思った。

 それは予想も覚悟もしていない、唐突な激情だった。彼の右手が美しい花嫁の左手に触れた、左手に、いつもわたしの左手に触れていたように、彼の、右手で。

 花嫁が彼の手を取る。その光景を見届けただろうか。ハンカチを口にあてがい、音も立てずに会場を飛び出した。

 

◇◆◇

 

 冬を越す間に、高校の同窓会があった。えんじ色のセーターの彼は、暗い明かりの居酒屋の隅で欠伸をしながら最近隣に越してきた奥さんとの関係を声高に話していた。さびしい人は簡単だ、と酒に焼けた声が言った。

 

◇◆◇

 

 スタッフの人たちは、珍しいことではないのか目を真っ赤にしたわたしをそっとしておいてくれた。わたしは人気のないところまで走って、誰にも聞かれずに済むすんでのところで嗚咽を漏らした。なにか機能が壊れてしまったように、泣き声が次から次へと溢れる。睫毛の凍りそうな夜、はじめて想いが通じ合って触れた腰、 眠たげにすり寄せてくる頰、かなしみに蝕まれてしまう夜壊れないように握る手。彼の左側をわたしはいつも与えられなかった、けれど。けれど。けれど。

 彼が触れる左手は、わたしのものだったのに。

 彼の右半身の片割れは、わたしだったのに。

 だってわたしたちはふたりでひとつだねって、あなた以外を全て捨ててしまいそうなあのときわたしにピアスを挿しながらあなたが言ったのに、あなたがそう言ったのに、

 わたしはあなたの左半身に選ばれなかったのだ。

 唸るような声が喉の奥から零れ出す。溢れて溢れて止まらなくなる。彼の喪失を縁取ってきた今日までの日々はなんだったのだろう。まるで嘘に思えて、脳裏に花嫁の左手が、彼の確固たる意志のもとのマーキングが何度も込み上げて、獣のような激しさの中に、底のないその中へ落ちていく。潰れたケーキの味、彼と踏んだイチョウの鳴る音、季節の匂いと光の色、彼のためにケトルでお湯を沸かす時間、彼が褒めた睫毛、左耳に囁かれた確かな愛と証のピアス、世界が変わったような気がしたあの夜。生きるのが上手くなったと、錯覚していた。知っていたはずなのに、そうではないのだと思い違いをしていた、わたしはとっくに知っていたはずだったのだ、

 うつくしいは、つづかないんだ。

 ずっと続くと信じていた日々の裏切りがようやくわたしの精神に追いついて、わたしは何を考える隙もなく泣き続けた。

 

 

fin.

 

 

お題「左耳の小さな愛」

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