何が正解なんだろう。
世間の大多数から外れた道を歩み始めたとき、わたしは数ある声の中から救いの方向としてこういう言葉を聞いた。「悲しくないのに涙が出てくるのは当たり前じゃない(だから休んでいいんだよ)」
つまり、当たり前と思ってるようなことがひょっとすると他人から見たら異常なことだったり、理不尽なことだったりするという言葉を、主にネットで(すなわち現実世界的にマイノリティーで)たくさん目にした。
ほっとしたしこれからだってその言葉で自分を休ませることはあるだろうと思う。
皮肉にも家庭の外の棘によってぼろぼろにされたとき、それは単なるきっかけとして家庭の理不尽な作りをわたしは気付くことになる。
社会は理不尽だと、そういうものだと、みんな耐えてるとそんな説得文もあるが、ぶっちゃけ地球の裏側で食べるものにさえ困っていようとわたしが苦しむべき理由にはならないデショとそう思うわけだけど。
休んでいいんだよ。逃げていいんだよ。
その先には、幸せになっていいんだよ。が、いる。
もちろんその言葉に少なからず今後も自分が救われることになるだろうとは思うけど、一方で、泣きながら洗濯物を干す夜、はたと、思うのである。
幸せになろうとしさえすればなれる。
その時の気分によって、それを信じてしまえることだってある。
でも時に、そう、今みたいに、しわしわのハンカチーフを洗濯バサミで挟んだときどうしようもなく虚しくなること、つまり、「幸せになれること」の押し付けに癇癪を起こしてしまいたくなること。
それは、何に対する怒りなのだろうか。
わたしのことなんて何も知らないくせに、というもの? どれだけの数の集団の風潮に頷きかねてきてこうして今こうしていることをその幸福圧力者はちっとも知りえないくせに?
それともこう、幸せになれるのだけが正解なのって思い? それだとしたらそれ以外の末路を辿った人間はみんな否定されていくみたい。
そりゃ幸せになりたいわたし。
つまり、夕食後にものが食べたくて泣いてしまうこと、その食欲は空腹によるものではなく単に底なしの孤独からくるものであること、胸のあたりでぐわんぐわんと鉛が暴れること、エトセトラそういうのが全部ない状態、を、今のわたしは、多分今のわたしだけが、幸せと呼ぶ。
天秤にはかけられないけど、
わたしは自分の心から生まれる言葉を死なせたくないと思う。一度死んで、生き返りかけの今が、一番素敵な言葉を話す。
幸せになると自分の言葉が死ぬ。そんな気が、ずっとしている。
一方で出回っている言葉というものにはキラキラとした、多分生み出した人間が幸せに生きているんだろう言葉が、圧倒的にあって、そうしたものを受け入れられないのは自分の捻じ曲がった性格がなせるものだとは分かるんだけど。
だって私が好きなものより、大嫌いな詩の方がずっとたくさんの人に読まれて、私の大嫌いな人ばかりいつも人気者になる。
たぶんそうでもないんだろうけど、気づかないふりをして言いたい。大声で言いたい。わたしは誰よりも言葉を愛しているし、誰よりも言葉が大嫌いだって。
陽の当たる場所で生きている人と、陽の当たらない場所で生きている人と、人間はきっと、2種類がいる。
後者によく見受けられるのが、陽の当たらない場所から陽の当たる場所は這い出そうとする人間をひたすらに非難し嘲ることだ。多分それを、僻みと呼ぶ。そして先述のわたしも、僻みと呼ばれる。
ただねえ、なんか上手く言えんのだけどねえ、身近にその非難し嘲るタイプの人がいるけど、さすがに同じ側とは言え引いちゃったなあ。
あれ、と思う。もしかして、意外の今のわたしの身体、ぼろぼろなんじゃないだろうか。去年の冬とか、ピークの頃とはもちろん比べ物にならないけど、なんだかんだ、ちゃんと不調なんじゃないだろうか。
そりゃ、まあ、生活習慣もよろしくないし、なんら不思議ではないけど、生活習慣を改善する意欲になる、理由というものが見つけられていない。いろいろなしんどい症状が改善されるとしたら、それは願ったりなことに違いないのに、どうしても私の重い腰を上げさせない。
この間、唐突に気づいたことがある。
それは、わたしたちはある種永遠に孤独である、ということ。
それは悲観や排除の方向をもってしてではなく、ようやく気がつけたことだった。
というのは、言葉とは、万能じゃないのだ。
言葉とは、神さまじゃないし、魔法でもないのだ。
一人の人間は、もちろんひとつの皮の中に収まっているけれど、その中でさえ、完璧に分かり合うことはないのに、
ましてや物理的に隔たりのある他人と他人が、完璧な意思疎通をできるはずがない。
現に今、その時わたしはその気づきに対して「せっかく表現者であるのだから齟齬の生じることにむしろ希望をもっていたい」と強く思ったはずなのに、今こんな形でこう書いてしまぅているのだし。
ラーメンのスープの、油はいいなあ。
すいすい箸でつついてさ、あれどんどんくっついてひとつになっていくじゃんね。彼らには分かり合えないことなんてないんだろうなあ。
と、ここまで書いてみて、さらにこの間感じたことも思い返す。
他人に迎合することから一番遠いところにいたいはずなのに、
作品が誰にも見られていないことに虚しさを覚えること。この自分の一貫性のなさ。
ブログのアクセスは、「頭のてっぺんから〜」を投稿した夏以降順調に0を保っていて、自信のある作品には大抵いいねがつかない。
本末転倒なことをしているかもしれない、でも、誰かに見て欲しかった。だってだからTwitterやってるんだし。
一方でフォロワーを増やす方向は避けたく、なんかもうがんじがらめ。低気圧続きのおかげで頭蓋骨はきしむきしむ。
かつてあの子に届かなかったわたしの文章は、それでも誰かに届けばいいと思ったはずなのに、そんな気持ちすらぐらぐらと揺らぐ。
どうして書くんだろう。
なんで書いてるんだろう。
なにしてるんだろう。
ひたすら、虚しさに取り憑かれて、ああ、やっぱり本末転倒じゃんね、と思う。
両親の都合で決められた「生きること」というのは、もう初期設定からして暴力で、たとえば毎月女性として肉体の変化に襲われること、それがもう肉体が裂けそうなほど痛いこと、あるいは低気圧の日息を忘れるほど頭が痛むこと。自分の意思で避けようがないのに、逃れようとしたらえげつない痛みしか手段がない(つまり、ない)なんて、どんな不条理劇も泣いてひれ伏すねこりゃ。
今回は着地点も論の展開もなくオムニバス形式でお届けしました。
今日もなんにもしなかったな。
言の葉の庭の小説を読み返して、ぐわんぐわんと泣いた。泣き喚いてしまいたかった。どうしようもなく救われてしまうこと、救われることがもどかしいということ、立ち尽くした迷子の子供のようだということ。
ところでわたしの好きなものは大抵、メンヘラやセンチメンタルという嘲りの意味を込めた言葉とともに賞賛されるんだけど、あんなに透き通った心の人、あんなにきれいで美しい感覚の人、いないのにな。大森靖子さんや新海誠さん、尾崎世界観さん。
P.S. ハンドルネームを漢字一字にしたいので募集中です。お題箱などで。気分できめますまる。