コンビニへ行く。


わたしの住む寮は、朝と夜に決められた時間内に食事を提供してもらえて、もちろんその時間帯が不都合であれば取り置きを頼めるんだけれど、


2日目。入寮して、2日目。朝も夜も、食べに行けなかった。

人と顔を合わせたくない。人のいる空間に居たくない。そんなわたしの塊みたいな感情によって、全身を鉛にされて。作り置きを頼みに行くのもしんどい。


今日は、フォロワー様のコンサートに招いていただいていた。遠く、3時間以上もかけてわたしの舞台をはるばる観に来てくださったお方で、そればかりかとても舞台を楽しんでくださって、一緒に写真まで撮ってくださった。

年齢的にも、年齢を加味しなくとも、姉のように慕っている。

前日になって急であるにも関わらずチケットを用意してくださって、演奏をお聞きできるのも真剣に楽しみにしていたのに、だ。

部屋から、出られなかった。


一年間引きこもっていたとはいえ、ここ数ヶ月、一人暮らしでも毎日なんとか過ごせていたのに、と思う。

ああ、あの日々のどうにか維持した安寧は、毎日稽古で、好きかどうかは置いておいても知った人と会い会話ができるということに保証されたものだったのだ。そんなことに気づいてみたり。



22時を過ぎて、ようやく、さすがに朝から水しか口にしていないので、眼鏡をかけてマスクをして、外へ出る。



真っ先にしたことは、マスクを外すこと。

呪われた習慣のように空気の味を確かめて、ああ、と、とっさに思う。故郷の空気は、甘かったな。


けれどそれでも、ぱっとあたりを見回すとよく分からない形によく分からないものがよく分からない色で遠くの方に見えて、なんだか楽しくなった。足だって鉛でちっとも軽くもなかったのに、つい走ってしまった。コンビニまで。


玄関からすぐの横断歩道は、かなり広く車通りもあるくせに、信号がない。運転手さんとの譲り合いみたいで、ちょっと、ちょっとだけ楽しい。


夜、知らない街、コンビニ。ちょっと怖かったけど、なんだか気分がいい。

今日も、お月さまはきれいで、まるでわたしのためみたい、わたしを励ましてくれてるみたい、そんな柄にもないことを思うほど、きれいだった。


半袖に、手持ちの中で一番薄手のカーディガンを羽織ったけれど十分暑かった。さっさと脱いで腰に巻き、結んで、腕に触れる空気を感じる。ああ、今年、外で、この腕に空気を触れさせたのは、初めてのような気がする。



明日、明日は、5年ぶりくらいに、小学校のときの同級生に会う。なんとなく連絡がきて、いつかご飯いこーと言われていた、いつもならスルーして社交辞令と捉えて済ませてしまうけれど、ちょっぴり勇気を出して自分から連絡をいれてお誘いする。

まあ、気乗りしなくないといえば嘘になるけど、とりあえず何かしなくちゃと、思ったわけだ。


コンビニで、唐揚げ丼とワッフルを買った。公演期間に5キロも体重が増えたというのに、呑気なものだ。


帰宅して、コンビニの袋をまさぐるがウェットティッシュがなくてちょっとヘコむ。そんなことにヘコむことにヘコむ。そしてブログを打ちながら、「たべにいけなかった」を真っ先に「食べに行かなかった」に変換するスマホに、ヘコむ。責められているような気持ちになる。


なんだろう、ブログを書こうと思うと、瞬間たくさんの言葉、考えは溢れ出してきてその一文字一文字に胸が踊るのに、いつも掬いきれていない気持ちでいっぱいになる。文字に起こすという作業を、昔の人は、なぜ始めたのだろう。面倒で、打ちのめされて、もどかしくて、そんな作業。マゾ? マゾなの?


そういえば最近マゾヒストという言葉をよく使っている。もう無理生きるの辛いいやだいやだ投げ出したい逃げ出したい、瞬間に、私はマゾ私はマゾと唱えて一瞬にして全てを俯瞰する必殺技。

説明すると長くなるので割愛するけど、役者はマゾだと思っているので生きやすくなるためにもマゾであろうと、そんなことをぼんやり考えている。


ああ、もう忘れてしまったに違いないけど、コンビニからの道すがら、わたしの胸をときめかせたわたし産の何かしらの言葉があったはずだ。もやもやする。残尿ってこんな気分なんだろうか。


まあ、また書こう。一発で全て完結しないから、生活というのは続くのだ。そうなのか。よくわからないけど。そういうことにしておこう。面倒くさがりだ。けれどこうしてブログを書いているから、文章に残すということを始めた祖先には感謝しよう。覚えておくため、後世に残すため? 今はなんかそんなロジカルなことは考えたくない気がする。

今宵はただ、彼女のコンサートの大成功と、素敵な夜を祈って。

それと、寮内でもマスクが外せるようになるといい。


ところで、近所にはどちらもあるけど、ファミマとセブン、あなたはどっちがお好きですか?