いつも考えていること

 

快楽を理由に、他人の人生を所有する権利を得られるんだとしたらこの世は偉人で溢れている。それでも、快楽が製造元となって自分が一から作れる小さい人間が発生するんだ。親なんて、みんなろくでもない。そんな魅力的なニンジンを豊かな理性で見守ることができるほど、人間の業は浅くない。だから、人なんてみんなおかしい。ちょっとずつ、あるいは相当に、それぞれ狂ってる。狂ってないって顔を誰もがしていて、そのことが一番気味が悪い。気味が悪くて、滑稽である。

 

多かれ少なかれ、そういう面を親子というものが失うことはできないだろうけれど、彼らは陶酔したかったのだと思う。尊敬されること、自分によって誰かが満たされることで。これは遺伝とかそういう話じゃなくて、親の性質は子も引き継ぐ。潜在意識で触れ続けた人間の人格なのだから。彼らが私にそうしてきたのだから。だから私は求めていたようなアクションを他人から得られなかったとき不愉快になる。それが、そういう業だと気付いている。そのことに、私はとても不愉快になる。

 

不登校三兄弟を独学で京大に入れたとある父親の話を読んだな、ということを思い出す。彼らがやりたかったのは、私の父親がやりたかったことはこれなんだろうなと思いっきり分かってしまう。ただ、この話に出てくる人と彼との決定的な違いがあった。彼は自分の能力を自覚できていなかった。彼に、この父親ほどのポテンシャルは比較にならないほどない。能力の不足した人間が自力で指導者になると、何も教えないより酷いことになる。教えるって、勉強のことじゃない。生きること、考えること、感じること。そういう、迷宮入りしてしまうような事柄たち。そして、彼にとって屈辱的な誤算がもう一つ。
自分を崇めて欲しかった娘が、桁違いに賢かったのだ。

 


二次元が好きだ。都合が良い。どこまでも夢みたいな世界だなと思う。それは、悪い意味の話じゃない。人々の感情がちゃんとそこにあって、それを歪めたり抑圧したりする人間の醜さごと隅々まで存在していて、誰かを愛する気持ちも誰かを憎む気持ちも確かに見えている。感情が存在している。その存在している感情のために、人間らしい葛藤を含めて、言葉にしようとする姿勢がある。平たく言えば、誰かや何かを強く思う気持ちがあって、それを持って進むことを世界が許容している。
ああ、そんなに何も考えていないんだ。感じていないんだ。生きていないんだ。他人と少しでも近づいて接するたび、深い絶望に突き落とされる。地位や名声を持つ人が滔々と何かを説いている。人々は感嘆して頷いている。そんな、私の頭の中に既にあるようなことで感動してんじゃねーよ。
地球が、今生息しているこの次元が、ちいさい。そんなことさえ思う。私は私をとてつもなく、持て余している。

 

 

だから、時々取り返しのつかないくらい虚構の物語に入り込んだとき、私は戻ってこられなくて(それでも戻らないことはできなくて)、その虚しさに死にたくなる。私の生きるこの世界は、なんて野蛮で、粗雑で、軽薄で、蹂躙に満ちているのだろう。
物語を作る人がいる。それだけの世界を生み出せてしまう人間は、それでも同じ世界にいる。私はそのことに救われるべきだと、思う。現に、そうしたクリエイターたちに出会っていなければ私はもっと悲惨な状態だった。

 

救われるべきだ。救われうる価値を持つ。
分かっていて、分かっていてもそれでも、やっぱり生きる術はないのだ、と思ってしまう。
愛なんて、存在しないんじゃないか。
親子はどちらかがどちらかに呑まれてやるしか成立しようがなく、恋人は穴があれば良くて、友人の恋人を前にして私が勝てるものなんて何もない。私に勝たせてもらえるものなんて、何もない。
そうならば、どうして生きなくちゃいけないのだろう。何を理由に。何のために。人類が問い続けてきたであろうことを私個人で提起しても無意味だが、それも分からないで生きるモチベーションを保つなんて無理がある。
だから、何も分からない方がいいのだ。其の場凌ぎの何かが楽しくて幸せで仕方なくて、難しいことはわかんないってセックスをして、「難しいことはわかんない」ってことさえ分からないで。

 

だから、そもそも人の孤独は約束されてしまっているのだろう。いるのは、孤独な人とそうじゃない人ではなく、孤独に気付く人とそうでない人なのだ。

 

痛いところに指を突っ込まれるより、ふわふわとくっつきながら話をする方がずっと楽しい。ずっと楽しくて素敵で満たされる。恋愛感情にリアリティを持てない。子孫を残すための本能的な欲は、少なくとも人並みに機能しているとは思う。それでも、自分に欲情する男を見ると冷めていく。冷え切るほど冷めていく。なんなら楽しくて煽ってみたりするのに、その時は何も嫌悪がないのに。

 

男性の精神に、リアリティが持てない。

 

肉体と対になるところの「精神」に。

女のことならわかるとも思わないけど。私に尊敬した瞳をさせて陶酔したがった父親も、昂ぶって自分の速度で進めていく元彼も、みんな強姦魔みたいだな、と思う。痴漢しておいて、ありがとうって言われてるみたい。気持ち悪くて仕方ない。

 

もっともっと使い古したら、変わるのかな。相性のいいセフレでも探しまくったらいいのかな。そうやってちょっとずついろんなことがどうでも良くなれば、私もバカになれるのかな。

 


こういう風に私は自分の性にがんじがらめにされていて、それなのに時々それを利用する自分に吐きたくなる。重い物を持つことや、激しく疲れてしまうことを、何となく回避させてもらっている。可愛いとか、そういう女性的な魅力だって欲してしまう。

 

性が嫌いだ。性を前にしたとき、相手は私のことなんて見なくなってしまう。だから嫌い。あまつさえ怒られたりする。欲情して眠れないことを責められたときは何周か回って言葉が出なかった。いくらでもAVで抜いてください。

 

それでも誰かに愛されたくて、誰かを大切に思うあたたかくて甘くて優しい気持ちに自分が浸っていたくて、誰かに愛されるに足る人間であると思っていたい。私から言わせれば、友人と恋人にはセックスしか違いがない。相手のことをたくさん考えていたいし、恋人を甘やかすのと同じように友人を喜ばせたい。恋人なら普通くらいの頻度で、友人とコンタクトをとりたい。何が違うのだ。どうして彼氏の束縛はよくて、女友達の友愛は重いと面倒くさがられるのだ。
逆に、どうして友達はそういうことをしないんだろう。もちろん知り合いなら誰とでもしたいわけじゃないけど、したくないような相手は知人とかの枠に放り込んでおくのみだ。

 

セックスしなければ、愛なんて獲得できない。そのことを考えるたび、私はいつも、ああ、一生このまま誰とも深く繋がれないのかな、と思う。そう思って、ぐちゃぐちゃに泣いてしまう。
抵抗もないのだし、痛みも生じないようにできなくはないし、同性と恋人になれないかな。そんなことも考える。何度も何度もそんな気持ちが浮かんでは、結局性別に関わらず愛し愛せる人でなきゃ虚しいだけだ、と思う。
とりあえずとか、顔がタイプとか、フリーだからとか、ナシじゃないからとか、そんな理由で愛を囁けない。そんな不誠実なこと、私の全細胞が拒絶してしまう。誠実であることも、繊細であることも、何らかの形で私を救わないのならとことん無駄だ。こんな風に生まれない方が良かった。

 

思いっきり愛してみたい。思いっきり愛せるほどの人に、出会いたい。私を見つけてと今日も二酸化炭素を吐き出して、やっぱり絶望して泣いてしまう。心を甘く、あたたかく優しくして他人とリンクするなんて、夢の世界の話だ。
バカばっかり、バカばっかり、バカばっかりだ。いつかこんな風に泣かない時が来るのだろうか。愛が実在しないなんて認められない。だってこんなに、私の中にはちゃんとあるのに。