まばたきほどのシンデレラ

 

 かろうじて物心がついたばかりのあれは、たぶん、五歳の誕生日。というのは、三歳にしては自分はしっかり親戚のおじさんおばさんに挨拶をしていたし、六歳にしては並べられたプレゼントが子供っぽかったように思うから。
 そのリボンは、確か新鮮な血液みたいな赤で、あたしの髪に宝物のように触れた手が愛情に溢れていたことを覚えている。あたしはそのリボンがしゅるしゅるとあたしの髪に巻きついた瞬間、リボンとしての女の子の魔法か、その赤としての情熱の魔法か、どちらにかかるべきか一瞬迷ったものだ。
 時は流れて、長く伸ばしていた髪は耳が見える程度になり、しなやかな黒はブリーチを重ね明るくなり、クローゼットにはデニムとTシャツばかりが並んでいる。デキる女が似合うようになり、パンツスーツが似合うようになり、目元を跳ね上げたキツいメイクがあたしのイメージになった。そんなあたしの風貌と、その外見に伴うであろう内面がツボだという恋人は、もう付き合って三年になる。そろそろ結婚を考える時期かもしれなかった。そんな時である。送り主の書かれていない小包が届いたのは。

 

 ちょっと破り跡が汚い感じで開けた小包の中身は、拍子抜けするほど空気が詰まっていた。やけに軽いと感じたけれど、無理もない。だってなあんにも入っていやしないもの!
 苦笑いが肩を竦めさせて、その小包を閉じるとき、あたしには二つの直感が襲っていた。ひとつは、なんとなく、これは捨てちゃいけないのだということ。そしてもうひとつは、けれどもあたしはこれのことをすぐに忘れて二度と思い出さないだろうということだった。居間で恋人が呼んでいる。あたしは早々に小包から目を離し、窓の形をした空を眺めているところだった。愛しい声に引っ張られるように、あたしは彼のもとへ行った。

 あたしの誕生日が、一週間後に控えていた。彼の、日常生活の中での必死な、しかし本人的には水面下のリサーチは着々と進んでいた。実のところ、今回あたりでプロポーズが来るんじゃないかと踏んでいる。本屋ではゼクシィの棚の前でどちらからともなく立ち止まるし、街のデートではやたらとジュエリーショップに連れて行きたがる。そんなにも分かりやすいのに本人はばれていないと思っているような、そんなところが愛しかった。
 そうとなれば、あたしの方も準備を進めておかなければ。
 こっそりと、スマホで結婚式場を探す日々だった。ドレスは、スレンダーなものがいい。余計な飾りはついていないもの。ポインテッドトゥのピンヒールもかかせない。キツくキャットラインを引いた自分が、まっすぐ前を見つめて、カツカツとウェディングロードを歩く姿を想像して、ひそかにうっとりとした。胸がぎゅっと結ぼれるような思いだった。それから三日後、誕生日の日にレストランを予約したという連絡が恋人から入った。あたしはそのメールを開いた次の瞬間に、いつも行く美容院のいつもより高めのメニューを予約した。

 

 当日は、日向を歩けばぬくぬくとする天気になった。
 深呼吸がてら空を見上げると、吸い込まれてしまいそうな、気の遠くなるような高さの空をしていて、コートの前を寄せ合わせたいような気持ちを吹っ飛ばした。いい空で、いい空気だ。あたしのとっておきの記念日に、誂えられたような日にさえ思える。
 仕事を終えた時間に、ちょうど彼からのメールが入った。ほんの少し遅れるということだったけれど、こういう連絡の場合せいぜい退屈しない程度にしか彼は遅れたことがない。律儀な人なのだ。
 新調しておいたワンピースに着替えると、気持ちがきゅっと引き締まった。食器洗剤のCMみたいに、音が鳴りそう。足をすらりと見せてくれるピンヒールは、付き合って一年のときに彼がプレゼントしてくれたもの。「気に入らなかったらどうしようと思ったんだけど、」彼は照れて頭を掻きながら言っていた。「ツヤツヤしているのはとてもきみに似合うと思って(エナメルという言葉を彼は知らなかったらしい)」。
 仕上げにボヤけていたアイラインをくっきりと引くと、軽くマスカラで睫毛を撫ぜてからあたしは約束のレストランに向かった。暮れ始めようとする空には、まるで忘れ去られたかのようにぽつんとひとつだけ雲が浮いていた。

 

 かちゃり、かちゃりと、控えめにお皿が鳴る。彼の予約してくれたレストラは、最高に美味しかった。彼が小さな口でワインを飲むのを見るのが、相変わらずいい時間だった。
「きれいだね」
やたらと口を拭っている彼にそう声をかけると、裏返った声で「うん?」と彼が答えた。
「外」
「うん。きみにふさわしい場所にしたくて」
「全部、遠いね。小さい」
「世界を見下ろしてるみたいでしょ。だから」
「あたしが巨人だって言いたいの」
確かに身長は高い方だけれど。女性にしてはというより、性別関係なしに。
「あっそうじゃなくてさ」
彼は慌てたように弁解する。
「気高く、凛々しくそびえたつ木みたいだから。きみ」
まっすぐに言われて、恥ずかしいような大仰なような気持ちがして首を小さく竦める。木って。もう少し他のものないの。そう思ったけれど、他に思いつくでもなく、だんだん自分の褒め言葉を考えるのも気恥ずかしくなって黙った。

 

 レストランで何度も口ごもる場面があったものの、結局食事といくつかの他愛ない話でディナーはお開きになった。遅れて出てきた彼に「ありがとう」と言うと彼は照れて笑った。それから意を決したように、「少し歩かない?」と言った。

 

 ベンチに誘導したのは彼だけれど、「寒いね」と言い出したのも彼だった。あたしはそうねと答えて自分の左手をさすった。
「あの」
彼の声が静かに響く。あたりは静寂に包まれていた。まるで気でも使っているかのように。
「誕生日おめでとう」
「うん。……ありがとう」
職場でも何度か言われたが、恋人からの言葉は格別だった。年数を振り返ってほうっと息を吐きたくなるような、ゆるゆると包まれるような解かれるような気持ち。誕生日のスペシャリティは、きっと人々に隙間を生む。何かの魔法にかけられてしまいそうな、そんなゆとりと夢見と、それから安堵のようなものを。
「あのさ」
彼が続ける。あたしは背筋をしゃんと伸ばしたまま左瞼に指を触れた。
「……ダイニングの時計さあ!」
「……え?」
彼がまくしたてるように言う。張り詰めていた空気が一気に解れていく。
「ダイニングの時計! 鳩出なくなっちゃったよね」
「あれ、鳩じゃないけど」
「えっ。そうだっけ」
「うん」
「そっかあ。あ、新しいのに変える?」
「……まだいいかな。支障ないし」
「そっ、か」
押し黙った彼が唾を飲む音がした。どんな顔をしているのか、容易に想像がつく。
「ゴーン、て」
「え?」
あたしが言うと、彼の素っ頓狂な声。
「ゴーン、て鳴るのがお気に入りだった。時計。00分になるとさ。あれだけちょっと残念だな」
「そ、そっか! そうだね! あの音、良かったよね」
ストールを持って来れば良かったな、と思い始めていた。首に入り込む冷たい空気が、頰に触れる空気よりずっと刺すように感じる。ぎゅっと、手に温かな温度が触れた。皮膚一枚の向こうで、どくどくどくと血液が波打っていた。
「あったかい」
「ほんと?」
「冷たいけど」
「どっち?」
親指で彼の手の甲を撫でると、指が絡められる。「ねえ」と名前を呼ばれて、あたしは彼の顔を見る。
「結婚してくれないですか。僕と」
誕生日は魔法にかかるチャンス。だって幸せで、透明度が上がるから。プレゼントは、魔法をかける。幸せにゆるんだ心に、つけ込むように甘やかな呪文で。
 箱の中で光るリングが目の前に差し出されていた。あたしは、せっかく綺麗にしてきたんだから明るいところでとびきりの笑顔を見て欲しかった、と思いながら背筋をもう一度正して、

 

正して「はい」とーー

 

 照れて俯いた視界にピンヒールが映って、

 

 あたしは弾かれたように思い出した。もう二度と思い出さないと強い直感が告げたはずのあの小包。差出人は不明、中身は空っぽでどう見てもゴミだったのにどうしてか捨てなかったーー

 

 何か言うよりも先に立ち上がった。彼がぽかんとして見上げたまま固まったけれど、そんなことを考える余裕もなかった。小包。贈り物。プレゼント。ーー魔法!

 

 ああ、あたし、今ならパブロフの犬にも勝てる。ぱっと走り出した途端、そんなことが頭をよぎった。数分もしないうちにあっけなく息が切れて、膝が痛くなった。あたしはどうして走っているのだろう。こんなに大切にしてくれる恋人を置いて。あれだけ勇気を振り絞ってくれたであろうプロポーズに、返事もしないで。けれど、思い出してしまったのだ。禁忌でも何でもない、ただの小包を。
「いったあああい!」
しんどくて今すぐにでも足を止めたくて、頭がぐちゃぐちゃになって叫んだ。それはちょうど賑わいのある通りに差し掛かったところで、そこにいる人たちの視線を一気に集めた。なんなの。分からないの。どうして走ってるのあたし。もうぐちゃぐちゃなの。彼はどうしているだろう。あたしが背を向けてから少しして、我に返ったように「待って!」と叫んだのは聞こえていた。追いかけてきている? あたしが彼だったらこの後あたしを許すことはない、と思う。
「ああもう! なに!」
自棄になってピンヒールを足から剥ぎ取った。視界ががくんと下がる。喉と、肺のあるあたりがヒリヒリとして、冷たい空気によって焦がされていた。足裏にコンクリートが触れて、ひやりとする、ぞくぞくっとした。悪いことをしている気持ちと、解き放たれたような子供みたいな気持ち。その気持ちが、心臓が落ち着くのを待たずにその足で地面を蹴らせる。走り出す。走らなきゃと、思う。

 

 もはや脳じゃなかった。あたしを走らせているのは、もう脳じゃなくて、心臓だった。

 

 息も絶え絶えに、玄関にたどり着く。ガチャガチャと、鍵穴に鍵を合わせるのももどかしく、いっそ腹を立てながら鍵をねじ込み、強引な音を立てて中へなだれ込む。
 確か。クローゼットの。いちばん奥。いちばん上? ……じゃなくて……床! タンスと壁の、隙間!
 明かりの下で引っ張り出すと、あの時の小包が出てきた。あの時一度開けて、一通り中を見て空だったから畳んで……ほんとう?
  分からない何かに飢えたように、手にした包みを揺すった。思い出したように、体中から二酸化炭素が吐き出された。こんなに走ったのは人生で最近にいつだろう、ということも思い出されないほど、激しく息が上がっていた。波打つ鼓動が、全身が心臓かと錯覚させる。それはもう、つい先程の彼とは比べものにならないくらいに。
 息を吐き出す音の後ろで、なかったことになりそうなほどの音ではらりと何かが小包から落ちた。真っ赤なリボン。覚えている。 あれは、五歳の誕生日。三歳にしては自分はしっかり親戚のおじさんおばさんに挨拶をしていたし、六歳にしては並べられたプレゼントが子供っぽかったように思うから。沢山の人が、にこにこ顔であたしを祝福していた。魔法少女が髪に結わえていそうな、赤色。あのときしなやかにうねる黒髪だったあたしは、結わえられたリボンの赤さにどきっとした。何かを燃やしてしまえる炎の赤か、可愛らしい形に結ばれた女の子の魔法か、決められなくてあたしは困った顔をしたまま誰かの優しい手に触れていた。
 床に落ちたリボンを掬い上げると、くすぐったいほど柔らかな肌触りをしていた。
「ーーああ」
蛇口をひねったかのようにすーと涙が吹き出して、流れていく。詰まった声が、やがて破裂音として嗚咽になり、獣の慟哭のようになっていく。ごしごしと目元を、手の甲で強く擦った。痛みのあるくらい、強く。だって違うの。あたし、あたしは、だってあたし、魔法だったのそうじゃなかったの赤は可愛い女の子だったの、玄関の扉が強く音を立てた。あたしの泣き声に向かって来る足音が聞こえた。あたしの歪んだ視界に姿が飛び込んでくるのと、耳に彼の声が飛び込んでくるのは同時だった。あれだけ酷いことをされた声が、あたしの名前を呼んだ。
「目元、真っ黒だよ」
情けない声だった。躊躇うようにあたしの目元に手を伸ばして、それから攻撃がこないのをみてそっと目尻を撫でた。
「違うの」
キツいメイクと、パンツスーツ。そんな風貌と、その外見に伴うであろう中身を好きと言った彼。
「あたしネコじゃなくてパンダなの」
言葉尻がたちまち嗚咽に変わっていく。手当たり次第にデニムやTシャツを掴んでいく。分からないの。あたしもうぐちゃぐちゃなの。手の中の布を投げては拾って、拾っては叩きつけるように投げていく。
 あの日、ときめきのような赤をしたリボンに、魔法にかけられていたのだ。その魔法は、あたしを恍惚とさせた。出産前から買い込んでいた男の子でも女の子でも大丈夫な服を着せられていた中で、初めての女の子みたいなプレゼントだった。結わえられたリボンの形の、愛らしさにどきどきした。あれは魔法だった。幸せで、隙間のできた心にしゅるしゅると入り込む、魔法。あたしは、真っ赤なリボンが似合う永遠の少女になりたかった。
「ネコじゃないの。パンダなの」
疲れて、あたしはぐったりと座り込んだ。困惑しきった様子で、けれどおずおずと近づいてきて、彼があたしを抱き締める。明日は、うんと遅めに起きよう。目が覚めたとき、彼はもう家を出てしまっているかもしれない。これっきりかもしれない。でも、あたしは赤いリボンなのだった。ピンヒールもキャットラインも、あたしのものじゃない。あたしじゃない。ほんの少し、ほんの少しだけ彼の肩に顔を押し付けた。


 ゴーン。


 ダイニングの方から音がした。時計は0:00を指していた。「久しぶりに鳴ったね」と彼が言った。

 

 

 

2017.11.15