火照る

見慣れたホテル街をねじ伏せるように歩いた。吐きたかった。吐きたい。吐きたい。吐きたい。泣きたい。どうして。どうして。どうして。

 

 お昼過ぎ、駅前のショッピングモールを意味も無くぶらぶらしていたとき。声を掛けてくる影があった。

「えっ。遥? はーるかっ」

たとえば殺したいほど憎んでいる相手がいたとして、その相手よりも会いたくなかった。

「久しぶり、って、あ、覚えてない?」

覚えてない? ああ、そうできていたらどんなに良かった? その質問に首を縦に振ることができないことがこれほどまでに器官を狭めるとはなんてことだろう。

 覚えてない。はずなんかない。会いたくなかった。会っちゃいけなかった。あなたの世界から消えたいと、消えなくてはいけないとそう願って、願ったからあんなことをしているというのに、あなたにだけは会いたくなかった。会っちゃいけなかった。どうして。どうして。どうして会ってしまったの。どうして見つけてしまうの。どうして声なんかけてくるの。あたしの気なんかお構いなしに、目の前の影は少しだけ楽しそうに話しかけ続けるのだ。楽しそうに? 否。そう、振る舞っているのだった。何を偉そうに楽しそうだなんてあたし。

 

 汚くて嫌な臭いがして嫌なひとたちが行き交う夜の道は家みたいなもんだった。嫌悪感も抱いたことがなかった。なのに吐きそうだった。黒々のなかで。きっともう、食道の半分くらいまではせり上がっていた。会わなければ。こんな目。あわなくて済んだのに。

「っんぐぅっ」

蛙をひねり潰したみたいな音が出た。にわかに信じがたかったけど、自分の喉が発生源のようだった。吐瀉物を押さえ込んでる反動の音でしょうか。

 きれいになったね。そう言った。なんて答えたんだろう。答えた記憶すらない。それなのにその一言を覚えているのは本当に馬鹿だ。ええそうよと、もう十何時間遅れで声に出さず答えてやる。そうよ。そうよそりゃ。高い化粧品使ってるもんね。そう(心の中で)言うや否や、食道の液状のものが喉の手前までせり上がってきた。そのときスマホが電話の着信を告げる。

『お前、今どこ』

べっつに

『生理中だから拗ねてんの? ウケる』

生理終わったし

『何で来ないの。30分遅刻はないっしょ。今日は朝まで楽しむはずだったのに』

たかが30分でごちゃごちゃ言ってうざ

『は? 30分あったら2回は』

赤い丸をタップしたら声はぶつ切れた。

一人くらい見切られたってへいきだし。幸いにして財布は申し分なく膨らんでいる。

かたん、とちいさく音がして一歩後ろを見下ろすと、この間買ったばかりの真新しい口紅を落としていた。それを見た瞬間、喉の下に押し込めていたものが急に吹き出した。気に入って買った色だったのに。思い切り踏みつぶすように吐いた。

 こんな。こんなはずじゃなかったのに。十時間と数時間前に。あたしの前になんか。現れるから。まだ。まだ。まだ。

 まだあたし、あの人の世界に生きていた。存在を与えられていた。

 与えられてしまっていた、とそう感じなきゃいけないのに本当に馬鹿で、もう馬鹿でそんなんじゃこんなことしてた意味なくて、ないのに、馬鹿なのあたし。

「もしもし」

履歴の一番上の番号をタップする。

「さっきはごめん。今からしたいの。半分でいいよ」

あなたの世界から消えるためにあたしは抱かれる。あなたの知らないところで。あなたに不適合な人間になるために。たすけてって。たすけてって言っても、うっかり届いてほしいひとに届いてしまわないために。

 

 さっき吐いたから口はパス、と言い逃げして手首を擦る布の、生まれてから洗濯された回数はどれくらいだろうと考える。あたしは唾液の音が大嫌いだ。あの人と同じくらい大嫌いだ。なのに最中はいつもあの人の顔で頭が埋まる。覚えてない。はずなんてない。忘れられる。はずなんてない。ああ、と顔を覆いたくなる。まるで。あの人の存在を記憶に刻むために男と寝るみたいじゃないか。忘れてもらうためにやってることなのに。でも、知ってる。わかっている。あの人の知らないところでどれだけ落ちぶれようとあの人はそんなことすら知り得ないのだ。その自嘲すら快感を助長する。会いたくなかった。会いたくなかった。会っちゃいけなかった。会いたくなかった。

「いっだあっ」

男が情けない声をあげてうずくまった。抱えた右腕にはくっきりと強い歯形がついていた。たった今あたしがつけたものだ。思ったよりもきれいじゃなかった。男がキレる。そうだよね。誘ったのあたしの方だもんね。

「ふざけてんの?」

「こういう」あたしは右腕を彼の唇に押しつけて笑った。おかしかった。

「こういうプレイ燃えない?」

けたけた笑うあたしを相手は、怪訝そうな目で見つめてから「無理」と言った。

「帰る」

……あーあ。

「帰っちゃっ、た」

せっかく、今日はなしでいいよ、って言ってあげようと思ったのに。珍しいのに。普段ならあり得ないのに。せっかくのチャンスだったのに。ばっかだなあ。勿体ないの。ねえ。こんなことになったのお昼のせいだよ。酷いなあ。だから会いたくなかったんだよ。あなたに否定された存在でいないと、あなたの視界の外を確約されていないと。あたしは微塵も火照りもできないのに。無駄にでかいベッドからシーツをはぎ取ると、あたしはそれをびりびりと破いた。たすけてって。間違ってたすけてって言っても。うっかりあなたに届いてしまうことのないように。そうしてあたしは無心にシーツを裂き続けた。ねえあたしこういうのだいすき。あなたのことくらい大好き。幻聴ですらもあの人の声が聞こえてくることもないいかにも現実っぽい現実が。だいすき。大好きなの。唾液の音よりずっと。細かい繊維になった元・シーツがあたしの剥き出しの太ももを擦って、乾いた右目からぽろりコンタクトレンズが外れた。