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不良少女、煙草を片手に
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ふと思い出したことがあって、考えてみたいこと。
虚構と現実、フィクションとノンフィクションの話。
最初に文章を書きたくてTwitterのアカウントを作ったときは、繋がりたいタグなんかを使って、闇雲まではいかない程度には相互さんを作っていた。まあそれでも200には全然満たなかった気がする。
当時も当時でそれなりに拘りが強くて、調子よく自分の文章にデレデレしていた。今の私としては、当時の文章わりと嫌いなタイプなんだけど。
当時とか言ってみたけれど、2年前にもならないくらいのことで、今のアカウントで繋がっている方の9割はその時からの繋がりなので、やっぱり当時と振り返るには格好つけすぎかも。
私の場合、大抵ものを書くときにはまず、惹かれるモチーフから出発する。
最近はやや減っているけれど、「性」から連想されるモチーフが私はかなりお気に入りだった。現実味のない夢物語じゃない、生々しくて醜い「ザ・人間」を書くには外せない&うってつけのモチーフだったから。その中に幸福な描写は少ない。もしかして殆どないんじゃないかと思う。その人自身や誰かを虐げる感情が、一番出やすいと思うから、その痛々しさを、つまりはその痛々しさやみっともなさに潜む必死に(精神的に)生きようとするうつくしさを、描くために使う。
隠していたが私は中年男性だ。とカミングアウトしたいけれど残念ながら普通にこのままの性別と年齢である。
当時(Twitterで物書きを始めて数ヶ月頃の、当時と回顧するほどではない当時、)私はネットのコミュニケーションに疎く__学生時代の間はネットは見るもので参加するものではなかったので__想像がつく限りの警戒心しか持ち合わせていなかった。
性別は仕方ない。文章の感じでなんとなく分かってしまうだろう。少なくとも私のような文章では。
問題は年齢であった。よく考えたらオイシイ歳なのだ私。華よ、華。華のライフなガールのエイジ。
私の年齢を知るや否やとても驚いてこう尋ねてきた人がいた。少し年上の男性のフォロワーだった。
「じゃああれ実体験で書いてるの?!」
は?
何を言ってるのか理解が追いつかなくて上手くいなせなかったことが今でも腹が立つ。お茶なんか沸かしまくれるくらい、電気ケトルとして旅館に就職できそうなくらい、腹が立つ。
その人の疑問は少し冷静になってみると容易に分かる。「その年齢であんな描写できちゃう(ほど経験豊富な)の?!」
感情は反射で浮かぶものだけど、括弧内の本音を疑問として、ぶつけてしまったのは幼い失敗だなあ、としみじみ思う。
アカウントを作り直したのはその後だ。
男性がそうじゃないとは言わない。言うつもりはない。だからここに差別の意図は一切ないと前置いて言いたい。
女性は女というだけで個人が、消費コンテンツになり得る。
日常生活でも、そのことをふと感じることはある。
先述の会話も、その一例としてストックにある。
あの場合、どっちに答えても質問者はおいしい。ただ気持ち悪かったという感覚だけが残る。少なくともTwitterでは少しでも消費から逃れたいと道を探して、今に至る。たまにその人を思い出して、AVを真に受けるタイプだろと悪態をつきつつ。(こういうところだよ、私)
その時の嫌悪は、実のところもうひとつあった。
野暮! つまらない!
素人の作品は全部日記だと思ってるんだろうか? 虚構という概念は存在しないのだろうか?
もちろん、文章だけでなくどんな手段の表現でも、表現者本人の人生の要素は全て作品に繋がっている。だから表現になるのであって、そうでなければただの生産ラインロボだ。
具体的な実体験の諸々を積み重ねて出来た当事者その人だから作れる作品だ。
そのことは大前提であるけれども、本質ではない。
つまり、作品は具体的な自らの骨格をそのまま皿に乗せてるものではない、ということだ。
だいたい、その理屈で言えばミステリー作家は何人を殺しているんだろう実体験で!
そりゃあ、確かに自分はどんな規模であれイチ表現者であるけれども、飯を食ってる作家と同列に並べてノー違和感なわけではないけれど。
やはりその点で「素人」ということ、もっと言えば「この年齢」であることから逃れられないのだと思う。ただ長く生きただけの人がそんなに偉いんか、私にはよく分かりませーん。長く生きているというステータスしか持ち合わせていない人間によくお目にかかりますもので。周辺に。
そもそも、ノンフィクションとかフィクションの区別いる??? と私は思うのである。
「現実にこういうことがあったんです! 奇跡でしょ! すごいでしょ! 感動するよね!」を自伝的に残しておく・広めるのはそれはそれとして、物語や散文(とりわけこれだ Twitterでも多いやつ 自分もよく書く)に現実・虚構の発想はなくていいよ。と思う。なんなら失くしてほしいとも思う。
そこにその言葉があるだけでいい。作り話でも実体験でも、書き手の人生にその言葉を選ぶことを迫る何かが強かれ弱かれあっただけ。それだけでいい。
少なくとも私はそう思うし、そう思うままでありたい。
他人の具体的な身の上話をおいしく消費しなくても目の前の文字を楽しめるままでいたい。
虚構と現実、フィクションとノンフィクションの話。
私は他人の言葉を(作家の小説でもフォロワーさんの散文でも)、現実以外を見るために目に映している。そこでフィクションノンフィクションの話をしたくない。
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うたよみんでいただいたコメントが「フィクションorノンフィクション?」を連想させたのでこんな話でした。
夜ちゃんぶらっくばーじょん